高校の時の話をしたい。


高校は、海外にある日本人学校に通っていた。

海外の学校なので、学期の始まりは9月

そして学期の終わりは6月となり日本の学校とは

異なる。


私が、体調が悪くなり、本格的に妄想など

精神の異常が出始めたのは、高2の春だった。


(4月頃)

高2の春は、すごい忙しかった。

勉強、部活、恋愛

全てに全力に取り組んでいた。

寮生活でもあり、どんどん限界をむかえていた。

自己管理能力も全くなく、日々に焦燥感が

出始めた。食事も酷く寝れなくなっていった。

忘れ物も増えたし、宿題もできなくなり、

テストも満足に解けなくなっていった。


(4月から5月頃)

私の場合は、かなり急性的に症状が酷くなる

特徴がある。保健の先生やカウンセラーに

相談して、病院に連れていってもらった。

ただ、それだけでは、症状は良くならず、

その後、妄想でおかしくなりぶっ倒れて、

最初の病院に入院した。


2日くらい意識がほとんどなく、かろうじて

覚えてるのは酷く辛い夢にうなされたくらいだ。

1週間くらい最初の病院に入院したあとに、

症状が少し落ち着き、若者専用の精神病棟に

移動して1か月くらいを過ごした。

少しずつ精神が落ち着き、現実感が戻り

この時は、未来への絶望や不安に押し潰され

ていた。

高校の同級生は、今頃普通に学校で過ごして

いるのに自分は精神病棟にいると思うと、

もう高校には戻れないかもと感じていた。

また急性期の私は、みんなに迷惑をかけまく

っていてほんと申し訳なかった。

両親は、日本にいたが、私が精神を壊したこと

を知り、日本から私がいた病院に来て

看病をしてくれた。

 

(6月〜7月頃)

症状が落ち着き、日本に帰れる許可がでた。

日本に戻ると私は、また1か月ほど日本の

精神病棟に入院をした。

消耗期に入り、ただひたすらゆっくりと過ご

した。でも、気分は最悪のゆっくりだった。

高校の成績は、4学期制で、4学期目の学期末

テストは受ける事すらできなかった。

しかし、それまでのテストの成績、宿題や

授業の態度が悪くなかったので、かろうじて

高校3年生には進級することができた。


(9月ごろ)

海外に戻り、高校3年が、始まった。

学校に戻ることは不安しかなかった。

病気や薬の影響もあり、頭の調子も

良くなかった。

しかし、これまでは寮生活だったが、

母が、学校の近くのマンションに住むこと

となり私は母と住むことになり通学生となった。

これは、いまでも本当に感謝をしている。

母のサポートが、復帰への1番の後押しと

なった。

 

高校3年の最初に参加できた授業は、

今でも忘れない。


まず、学校そのものが恐怖となってしまった

私は、学校に来ることすら、できなくなって

しまった。


そこで、最初のステップとして、学校にある

カウンセリングルームに通うこととした。

そして、次のステップとして

カウンセリングルームから5限目の

授業に参加することとした。めちゃくちゃ    勇気を振り絞ったのを今でも覚えている。

仲間は、そんな私をまた受け入れてくれた。

温かかった。


(10月頃〜2月頃)

この時期は、とにかく学校に通い続けること

優先順位を勉強が最優先として、勉強だけに

集中した。

特にこの時期には、スクールカウンセラーと

精神科のドクターには大変お世話になった。

それと、学校の先生方も私を気にかけて

くださった。ほんとに今でも感謝の気持ち

しかない。仲間もずっと温かかった。

ありがとう!


(3月〜6月頃)

症状がよくなり、成績も安定したので、

部活に復帰をした。ただ、体力が凄まじく

落ちていて大変だった。でもやっぱし部活は

最高だった。


部活では、地区のリーグ戦で好成績を収めて

地区のトーナメントに、出場した、

トーナメントの二回戦で敗退してしまったが、

仲間と部活ができたこの時期は今でも宝だ。

そして、6月に皆のサポートのおかげで

無事に高校を卒業することができた。


この高校生活の歩みは今でも奇跡のように

感じている。

とてつもなく苦しかったけど、周りに支えられ

ながら自分を信じて着々と前に進めた時期で

あった。

人間、どん底を経験しても、しゃがんだ後に

大きくジャンプするように、大きく前に進む

ことができるのだと、胸をはれる成功体験を

得ることができた。


その後の推薦で進学をした大学の話は、

またいつかの機会に話せたらと思ってます。


読んでいただきありがとうございます。