日本人は海外の文物を舶来といって珍重していたころの伝統がいまだ残っているようだ。
特にヨーロッパに対しては、ことの他強いイメージを持っているように思う。
ないものが欲しくなるのは、古今東西、人の営みには当然付随してくる。
だからなのか、日本で英語やフランス語がちょっとでも話せるとすごいとなるけれど、
現地では当然ながら当たり前のこと。
海外へよく行くとかいう人たちも
日本では羨ましがられる対象になりやすいのでは。
でも、そういう人たちは海外では埋没していて
意外と現地の人たちから相手にされていない例をよくみる。
「フランスに行ってきたの」・・・すごいな~!というリアクションはあまり必要ないのでは。
私が知っている人間でフランス語をきちんと話せる日本人はほとんどいないし、
英語も必死に話していてもネイティブのように話せている人もほとんど皆無だ。
数年間海外に滞在したからといって話せていると思っているのは、
その人だけではないだろうか。
つまり、話せているつもりになっている人がどれほど多いかということ。
(だから、自分は話せないからといって元気をなくさないでもらいたいんです)
僕は、この世の中に「特別」というものはないと思っている。
その「特別」は人が作り出した幻想にすぎないと思う。
たとえば、僕の仕事を特権階級でもあるかのような勘違いをしている方たちに
遭遇することがいまだに後を絶たない。
人の基本はみな同じはずなのに、思い込みというのはなんて悲しいものなのだろう。
勝手なイメージを持たれて苦しんだことを何度か経験したことがある。
物事には違いがあって当然。でも勝手な思い込みで卑屈になったり、
どうしてあるがままを受け入れようとしないのだろう。
目の前の豊かさを知ろうとしなければ、永遠にその人は幸せを味わうことがないだろう。
他者との比較ばかりに勤しんでいると、自らを見失うばかりでなく、
貴重な時間をも浪費していることになる。
そして今一度、テレビやインターネットから遠ざかり、
自然の姿を慈しみ、そして自分と向き合ってもらいたい。
海外の友人たちと私が話しているのは語学の力ではなく、
心がそうしているのだということを日々実感している。
語学力をひけらかす輩は僕にとっては全く魅力的な存在ではありません。
人の魅力はその人がどういうこころの持ち主かできまるのだと思う。
こころが通じあってはじめて、人は本来の姿になるのです。
幻影を捨てて、一歩踏み出してもらいたい。
海外には、まだ出会ったことのない、
自分と似た考えの人たちが沢山いるかも知れないということを
僕は声を大にしていいたい。
僕は想いを寄せてくれている人といつか本を書こうという約束をした。
人はなろうとした人物にしかなれない。
だからといって必ずしも良い条件に恵まれるわけではない。
だが、なろうという意志がなければその人物には決してなれないのだ。
Charles de Gaulle
思い込みを捨てられたとき・・それはあなたが正しい方向へ動いたという証拠です。
Good night
kisses
LUKE
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