成美学園 山手の丘の女子校 忘れちゃいけないもう一校! | ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録

成美学園 山手の丘の女子校 忘れちゃいけないもう一校!

横浜の山手の丘の女子校 5校もあったという、ハッピーな昭和黄金時代の記憶に引き続き、

 それにどーしても加えておきたい丘の上のミッション系女子校があるのです。

 

山手の丘の、隣の隣 蒔田の丘にある成美学園です。

この女子校は、いかにも、山手の丘のミッションスクール女子校軍団

というイメージがあり、気になり調べてみたら、もともと山手48番にて1880年に創立されたブリテン女学校がルーツということでした。 その後、山手を転々と移動し、現在の蒔田に広い敷地を得て移転。

さもありなん。 と納得。

 

山手48番は、これも調べてみたら、現在のフェリスの山手の道に面した1号館の、

元町に下るフェリス坂を挟んだ隣ので、3号館とかが奥に見えてる入り口のあたりでした。で、横浜女子商業の47番の隣?

 

 

さらに深堀りしてみると、横浜共立学園のWEBには

「1871年に山手48番に 亜米利加婦人教授所(American Mission Home) を設立。 学園の前身となる。」「1872年に現在の場所に移転とあります・

つまり、成美学園(戦前は横浜英和学院)と、創立の地が同じだったですねー。

そーなると、共立と成美の創立の跡地に現在のフェリスの一部があるわけで、

成美(横浜英和学院)と共立とフェリスは 山手48番友 山手48番3姉妹の関係だった! 

 

 

それでは、創立当時のフェリスはどこにあったか?

1870年に 居留地39番 に、メアリー・エディー・キダーがヘボン施療所で女子教育を開始。フェリス女学院を創立。 1875年、現在の山手178番(現在地)旧山手に校舎。

居留地39番は、現在の横浜市総合庁舎あたりですが、別の資料によると伊勢山で創立とあり、まあ、本来の話とは関係ないので、飛ばしておきます。

 

 

とまあ、横浜の山手のミッションスクールは、地理的に大変濃い関係だったわけですね。

 

僕としては、横浜女子商業が中央大学に合併され、山手から移転してしまった

跡地は、是非、成美学園が戻ってきて、青学系列になって資金のバックがついた時点で、山手キャンパスにすればよかったね!とか妄想しております。 

まさに、横浜 山手の丘の女子校歴史ドラマです。

 

 

 

実は、歴史的には、横浜の山手にはミッションスクールがもう一つあったそうで、

 

米国バプテスト教会のネーサン・ブラウン夫人のシャーロッテが山手67番の聖書印刷所跡に創設した捜真学院は、1891(明治24)年、山手34番に新校舎を建設。

後に、山手トンネル工事により、神奈川区中丸に移転! と 山手を探索された方のブログにあり、横浜市の歴史資料館展示でも、捜真学院のk事は紹介されています。

 

だそうです。 

 

 

成美学園は、僕の美術学校の当時、はやりのロングヘアーの近寄りがたかった

奥ゆかしい雰囲気(あくまでも雰囲気だけ)お嬢様の出身校で、まあ、地元が近いよしみで、その後、おとも達にしていただいた有難い思い出があり、

以前に紹介したルノー・フロリードのオープンカーの助手席に

黒髪を靡かせた油専攻の美人様お乗りいただき、

山手の丘ドライブを堪能していただきました。

 

時折、蒔田の坂道を散歩すると、風になびくロングヘアーが思い出されます。

 

ぼくにとっては、横浜英和学院 よりも、成美学園の方がなじみがあり、

学園名を元に戻して、ええええ と思いきや、

 

青山学院横浜英和中学高等学校  となり、

 

しかも共学となってしまって・・・昭和の思い出がまた一つ消え去ってしまって

 

残念!

 

こうしてみると、昭和な高校生時代、 雙葉の方と、横浜女子商業、横浜女子学園

の方々とお友達になる機会がなかったのも、残念!

機会があれば、コンプリートできたのにw

 

写真は、最近のお散歩途上でスナップした、当時とあまり変わらない坂道の上の校舎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横浜のミッションスクールについては、

 

な、なんーんと、2015年に、横浜開港資料館にて

 

「ガールズ ビー アンビシャス! 横浜山手のミッション・スクール」展

 

が開催されていたのを知って、これまた残念!!!

 

 

 

 
 
おまけ
横浜英和が成美になった理由は、鬼畜英米の時代に、英和とは・・イカンかも
との事らしいですね。
 
僕の母は、昭和を生きた女性としては、かなり洋風でオサレな記憶があって、和服を着ていた姿を見た記憶がないのですが、
六本木にあった東洋英和の出身でした。
 
僕の小学校時代、よく遊んでくれた同じクラスの一番の女の子、M子ちゃん が
後に東洋英和に行かれ、後輩になった事を、母はなぜか喜んでました。
 
話がそれましたが、
東洋英和は、鬼畜米英圧力対策で、戦時中の名称は「東洋永和」に変更し、
気転の効いた一文字変更で済ませ、戦後にすかさず、元に戻したのはなかなかですね。
 
 
 
成美学園の話はまだ続く・・・