記憶の彼方の 山手のドルフィン | ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録

記憶の彼方の 山手のドルフィン

先日の元町 MIKI に続いて、 初代 「山手のドルフィン」 つまり 

オリジナルな「ドルフィン」のお店のビジュアル資料を探してしるんだけれども、

これが また、まったく見当たらない (泣)

 

 

僕が生意気盛りの美大生の頃のある日、愚弟が、 おにいさん 家の近くに喫茶店があるよ と 隣の部屋から教えにきた。 つまり、教えてやったんだから連れていけ ということです。

 

そこで、早速、5分くらい歩いてコーヒー飲みに行ったのが「初めてのドルフィン」でした。 当時は、今のようなシアトル系カフェとか皆無で、というか、カフェ とか皆無で、 昭和の意識高い系学生は、喫茶店に朝日ジャーナル持って入るとか、カバーをはずした文庫本を難しそうな顔して読むとか、そういう時代だったのです。

 

さて、お店は白い外壁の平屋民家で、木の入り口ドア、店内は木の床と白い壁で、入り口のカウンターに少年ケニアの本が並べてありました。

このお店は 「少年ケニア」の作者である山川惣治さんのお店だったのですね。

実際にお店を切り回していたのは次男の方だったそうです。

それで、山川惣治先生をお店で見かけた記憶があまりない?

 

お店はそう広くは無く、 窓からは根岸のオイルコンビナートと根岸沖のオイルタンカー、本牧埠頭に向かう貨物船が見える景観! 

 

夜はコンビナートの照明も綺麗なので、 当時のガールフレンド(現奥様)

を連れて良く通っておりました。 

 

ググるとドルフィンの景観は、現在のモダンなものしか出てきません。

1982年に現ドルフィンは建て替えられ、他の会社に譲渡されたという事でした。

(この部分はWIKI調べ)

 

 

ドルフィンが有名になったのは、ユーミンの歌「海を見ていた午後」 1974年LP「ムスリム」に収録されてからで、ドルフィンが「山手のドルフィン」として知れ渡ったのは、

 山手のドルフィンはー 静かなレストランー♪ と歌ってからではと思います。

 

ユーミンがドルフィンに通っていたのは wikiを信じれば、ユーミン高校生当時で ドルフィン開店数年後との事で、そうすると、完全に白い壁の平屋時代で、現在の山手のドルフィンではなかった事は留意点ですね。

まあ、八王子から根岸まで、横浜線でよく通われたもんです。

 

さて、ドルフィンについてアレコレ

■晴れた日には三浦岬もみえる    実は見えないのです。 房総半島が見えたりします。 そもそも、三浦岬って? 

 

■ソーダ水の中に貨物船が見る    席がよければ見えます。 

地理的には根岸湾沖を眺める事になります。

 

 

■一部にドルフィンの場所は山手ではないという説

 

歌詞は文学的創作なので、決して突っ込んではいけません。

素敵な歌詞だと思います。

実は僕はJAZZとBOSSA NOVA おじさんなのですが、ユーミンの70年代のアルバムはすべて持っています!

 

本当に山手にあるの? 問題ですが・・

これはですね、「海を見ていた午後」が出るまでは、誰も山手のドルフィンとは

呼んでませんでした(歩いて8分の近隣住民である僕の知っている限りは)。

地理的はには山手ではないんですね。 まあ、JRの山手駅から歩いていける距離ではありますが。

さて、1972年ころまでは、西洋館の立ち並ぶ山手の丘の道に続く根岸森林公園(根岸旧競馬場跡)に進むと山本町の旧市電駅あたりのレトロ下町っぽい商店街を抜け、森林公園に向かい坂を上っていくあたりから西洋館風の住宅が何軒も続き、山手の続き的雰囲気が漂っていたんですね。その付近は、まだ米軍家族の住宅エリアも返還前で、まあ、今とかなり印象が違っていたんです。

ちなみに、ドルフィンのすぐ近所にはアメリカ軍の消防署があり、完全にアメリカスタイルの消防車が並んで、黄色い消火栓があったり、日本離れした光景。

消防署は米軍住宅エリアの日本返還にともない閉鎖されるそうです。

 

まあ、そういうわけで、 当時の雰囲気としては「山手のドルフィン」でいいかな と思います。

 

ちなみに、山川先生の次男の方は 現在、千葉の四街道で びすとろビアンコ というレストランを開いておられるそうです。

横浜から遠いけど、当時のガールフレンド(現奥様)と行ってみたいなーー。

 

所で、どなたかオリジナル ドルフィンの写真持ってたら、見せてもらえませんかね???

 

 

ご参考に

WEB有隣には詳しいことが

https://www.yurindo.co.jp/yurin/31637/3

 

びすとろビアンコ