デザインはメッセージであるということなんだ | ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録

デザインはメッセージであるということなんだ

昨日は忙しいなかで、数か所の うるさい(真剣な)クライアント向に出しておいたそれぞれのデザイン案が、A案とD案のここと ここを足して といううちょこざいな変更依頼なしに、きわめて直球でクライアント感動の中に通過した、嬉しい一日だった。  やるじゃん おいら って心境(爆


日本サッカーと同じで、デザイン・写真・アート類は、決定力 がないといけない。

決定力のあるデザインを最低でも3案は出せるのが実力というもので、

決定力のあるシュートを大切な場面で、いいわけ無用で放つのが、かっこいいでざいなーなのである。


さて、デザインはサッカーだ じゃyなくて、決定力だ に脱線してるけど、

本日の備忘録は およそ世の中のビジュアルなものは、メッセージであり、視覚言語なんだ つう単純な事である。


こう思って、こう思ってほしいから、こんなビジュアルなんだ ってメッセージ つうことだね。


たとえば、昨今流行りのオサレ写真でいえば、オサレ写真を視覚言語で考えると、オサレっぽいサシンを撮っている私は、オサレでしょ? を伝えてるんだ。ってことなんですね。


直球のお洒落写真の優秀作(そんなのあるか?)は、ブレッソンとか、パリの街角スナップ系 に感じることも多々あるけど、今日のオサレ写真は、パターン化されたオサレ写真の定番手法によって構成される。

つまりだね、こうふうにすればオサレなんだよ という共通化されたイメージ(視覚言語)で作られ、オサレ写真というシンボルになちゃった といえる。


淡いトーン・さりげなく、一部を切り取ってみせた 風にする、オサレ小物の一部もいれたりする

ぼかす(爆 あくまでも。おされ心象風景っぽく演出する、時として、シルエット、ハイコントラスをイメージつくりに使用・・等々のイメージ操作の組み合 が 言葉なわけです。


実は、ある種の高級雑誌掲載写真、広告写真等のビジュアルは、相当恣意的に計算つくされて 創造されてるんだ ということはあって、そこまでイメージ操作をしてるんですか? といわれれば、YESです(爆


どの要素をどれくらい入れると、どういイメージと味になって、というあらゆるイメージの調味料をいじくってるわけで、その操作を意識してするにしろ、無意識にするにしろ、やって上でのビジュアルイメージつくり なわけだけ。


そう思うと、下手にデザインも写真もできないじゃないか というと そのとおりなんだけど、下手にイメージ操作するするよりは、直球でイメージを作ったほうがマシな結果が出る という事もある。

直球のイメージつくりとは、こう思われたい私 という部分を捨てて、もっと素直に撮ってみる 事なんだが、

デザインでも、写真でも、アートでも、「こう思われたい私」 を捨てられる というか、消せるのが、お仕事人の世界と感じる朝でした。


なぜ、こう思われたい私 が不要かとえいば、 最初から そうあれば、 そう思われる必要がないってことで、簡単でしょ? ぐるぐるしてきますね(爆