『聞き上手は話し上手に勝る』ということば、だれの言か定かではないが、言い得て妙であります。
赤ん坊は、生まれてすぐには話せないものの、聞くことだけは、もう始めています。
母の声、父の足音、世界のざわめき、人は話す前に、まず聞くことを覚える生きもの。
哲学者の鷲田清一氏に『「聴く」ことの力』のなかに「聴く」とは、目の前の相手をそのまま受け止める、黙って迎え入れる営みだとあります。
一見、受け身の行為に見えながら、そこには他者と向き合う哲学的な奥行きがあるというのが、その論の核心です。
黙って座っているだけでは、聞いたことにはならないし、頭の中で反論を組み立てながらの沈黙は、聞くという行為からもっとも遠いところだといえます。
日本語には「傾聴」という美しいことばがあり、身体を、心を、相手のほうへ傾けるその姿勢そのものが、すでに一つの応答なのです。
禅の世界には「対機説法」という考え方があって、相手の器に応じて法を説く、という意味ですが、その前提には、相手をよく見て、よく聞くという行いがあるとされ、まず聞かねば、何を語るべきかもわからないもの。
しかし、大人になるにつれてこの順番はどこかへ紛れてしまうらしく、会話と称して、実は独り言の応酬になっていることが、ないほとんどです。
そもそも相手が話し終わる前から、次に言うことを頭で組み立てている、そんな経験に、覚えのある向きも多いでしょう。
街を歩けば、向き合って座りながら、それぞれのスマートフォンを見つめる二人連れをこの頃はよく見かけます。
会話はあっても、そこに「聞く」という行為が伴っているかは、また別の話のようで、誰もが発信者になれる時代、聞き手であることの静かな価値は、かえって目減りしているようにも思えます。
『耳は貸すもの、口は借りぬもの』と、聞くという字は「耳」に「十四の心」と書く、と教わったことがあります。
真偽のほどはさておき、十四とはいかにも多いようですが、本来はそれだけの心を尽くして初めて、人の話は聞けるものなのでしょう。
思えば、幼い子どもが「ねえ、聞いて」と大人の袖を引く光景、あれは、ただ情報を伝えたいのではなく「わたしをここに存在させてほしい」という、切実な願いのようにも見えてきます。
聞くとは、相手の存在を認めるという、もっとも根源的な営みであるはずです。
家庭でも、職場でも、あるいは行きずりの会話でも、今日一日のうちに、誰かの話を、本当の意味で聞く時間が、どれだけあっただろうか。
答えを急がず、判断を保留し、ただ耳を傾ける、そのわずかな時間が、実は人と人とをつなぐ、いちばん確かな橋になっているのかもしれないのです。
きょうだれかと言葉を交わす時、自分の話す分量を、ほんの少し減らしてみて、その分だけ、相手の声に、耳を澄ませてみる、たったそれだけのことで、見える景色が変わったりするもの。
聞くとは、黙ることではなく、心を、相手へ向けて開くことではないでしょうか。
