時は1959年。昭和34年。曲がりくねった細い道の両側には古い木の家が建ち並び、人々は小さな店先を覗きながら楽しそうに歩いている。あらー、そっおー、渋谷の下町は気さくな女の人達の掛け声が溢れていた。あら、ご主人様はどうしたの、また、銭湯に行ってるのよーあら、そー、浮気じゃないから良いじゃーなあい。働き者の彼女達のご挨拶が通り道を彩る。私は、何時もとは違う人に抱っこされている様だった。彼女は私の重さに怒りを隠してはいなかった。あー重い。私は居心地の悪さに耐えていた。何時も優しく抱いていてくれた人達とは全く違う人だわ。この人誰なのかな。少し前の、下を見ると小さな女の子がよろよろと歩いていた。その子の右手を背の低い男が握っていた。その手は逃さないぞと言っていた。その子は必死にその手から逃げようとしていた。でも、誰も気づかない。人々はこんなにも、何も見てはいないのだろうか。その子は本当にフラフラと歩いていた。痩せた身体を丸めて、背中は湾曲していた。まだ、小さな子供だと言うのに、まるで老人の身体だった。そして、足元は小さ過ぎる靴に爪先を入れて、かかとを上げて歩いていた。突然、道の右側の下駄やさんの叔母さんが飛び出して、ちょっと、あんた達、その子にちゃんとした履物くらい買ってあげなさいよ。見てられないわ、その子は物凄く可愛い顔をしているのに、まるで老人じゃないの、あんた達はその子の親なんでしょう、自分の子供の靴の大きさが判らない筈はないわよね。うちは下駄やだから下駄しかないけど、足にあった下駄を選んであげるわ。男はたじろぎ、直ぐ後ろにいる女に、おい、金あるか、そう言って、男の醜く飛び出した目で自分の娘を睨みつけた。周りの人々は一斉に、それを見た。聞いた。後ろの女は渋々金を男に渡した。女の子は恥ずかしそうに下を向いて歩いていた。慣れない下駄を履いて恥ずかしそうに下を向いて歩いていた。貴女は何歳なの。初めて街を歩くのですか、靴を持たされずに、いたのですね。私はまだ自分の力では歩いた事も無い赤ん坊ですが、涙が止まらないんです。貴女は何も語らないけど
私は涙が止まらないんです。一体何故、この二人の悪魔はこれ程に酷いのか。貴女はその時やっと語た。私には、解らないが今日は何をする為にここに来たのかは知っている。あの、母親という悪魔が言ったのです。どうせ、人は何も見てはいないのよ。私たちが自分の子供を隠していようが、殺そうが、誰も見てもいないのよ。わかりゃしないわよ。悪魔はそう言って、今日はまだ赤ん坊の貴女もわざわざ連れて来て、試しに歩かせているの。ここは、沢山の人々が道を歩いているけれど、本当に誰も見ていなかった。私は下駄を欲しくはない。出来れば誰も気がつかない方が良かった。今、誰かが私を見ても、誰も私を本当には助けてはくれないのよ。悪魔の言う様に、最後まで誰も気が付かないで欲しかった。何故なら、お腹が空いてたまらないのよ。誰にも気がつかれなかったら、ラーメンを食べて帰れたのよ。私は、ラーメンをまだ、食べた事が無いのです。誰も気がつかなければ、食べて帰れたのに。そう、言って、泣いた。腹が減った。男はそう言ったが、ラーメン屋を黙って道り過ぎた。私と貴女と二人の悪魔達は電車に揺られて下り、小さな駅で降りた。バスに乗る金も無い。そう言って男は貴女の手を引いて歩いた。逃げない様に。逃げる力なんてある筈も無い。悪魔は相手に逃げる力は残さない。何も言わずに悪魔達は埃臭いバス通りを歩いた。私は、殆ど寝ていたのだろう。やがて、一軒の小さな木の平家の前に辿り着いた。垣根が周りを囲い、右手には小さな松の木が植えてあり、松の木の香りがした。木とガラスで出来た引き戸に鍵を差し込み、引き戸をガラガラと開けた。玄関に入ると石なのか、セメントなのか判らないが、灰色の冷たい土間の様な玄関で、右には靴箱があった。部屋に上がるには随分高い。子供ならやっと登る程に高い。床は木が張られていた。直ぐ左にはコンロの様な物が置いてあった。煮炊きは一つでするのだろう。木で出来た小さな冷蔵庫があった。中に氷を入れて、冷やすらしい。いきなり右に襖があり、縁側のある、六畳と小さな庭が見えた。続いて、襖があり、隣は縁側と窓が二つある部屋。古い木造の小さな家だった。お風呂は無い。私はまだ、歩いてはいなかった。腹が減ったよ。男が言った。私だってペコペコよ。今日は私が負けたわ。あの、下駄やが気が付いたから、何も食べられないわよ。お酒を飲みましょうよ。疲れているから、飲めば寝ちゃうわよ。お金は此処には少しはあるけど、買いに行く前に疲れてしまうわ。よし、酒を飲もう。悪魔達は、酔って、ご機嫌になっていた。薄汚い事を口走っては、笑っていた。貴女は、何も言わず、語らず、ひっそりとしていた。悪魔達は、私の事も貴女の事も忘れて、馬鹿騒いでいたが、貴女も私も何も口にしていない。私は今日の朝、悪魔達に連れられて、此処まで来たが、朝にはミルクを飲んでいます。貴女は何時から何も口にしていないのですか。もう、7つの朝と夜になると、貴女は答えた。私は、泣いた。力の限り泣いた。うるさい。悪魔が本性でその凶暴な喉を鳴らした。酒の臭いが私に冷水をかけた。ちょっと、煩いから粉ミルクを作りなさいよ。持って来なくても良かったのに、持たされたから、煩いから飲ませてよ。貴女は黙ってミルクを作り私の口元に運んでくれた。また、共に飲めば良い。私達は黙って見つめ合った。貴女の笑顔は美しくて、眩しかった。また、会えたね、おブスちゃん。私達はその時、本当に幸せだった。あの日は遥かに遠い。道は、曲がりくねり、同じ道を私は歩いているが、貴女は今は、居ない。あの時の貴女は今はもう居ない。でも、別の貴女が生きている事を知りました。だから、私は書いています。あの時のあの道は同じなのに、私はまるで何もしていなかった人の様です。だからせめて、書いておきます。あの時の貴女を忘れない様に。あの時の私を忘れない為に。遥かな道であっても、人は必ず夢を叶える事が出来る事を、私も忘れない。