大過陽剛の勢いが過ぎる初めであるが、上に正応の陰爻がないので已むを得ず在下の初六に比しむ象。例えていえば枯れかけた楊柳に梯が生じ盛りを過ぎた老人が年若い妻を娶ったようなもので常を過ぎた状態ではあるがなお陰陽の和合によって生育の功を保ち得るからよろしくないことはない。分を過ぎて与しあう。陰柔居中、もとよりおのれに相応しい陽剛の人を求めてその養いに頼るべき身であるが頤養の道は目上の者が目下の者を養うのが本筋である。ところがこの卦の陽剛は初九・上九の2爻だけである。故に初九に養いを求めるとすればさかしまに養われることになって常道にもとることになるし、さりとて上方の丘(上九)に養いを求めるとすれば遠きに過ぎてしかも正応の人ではないから行っても凶である。行っても相手が本来頼るべき同類ではない。見龍田にあり。大人を見るに利ろしとは何の謂いぞや。子曰く、龍徳ありて正中なる者なり。庸言これ信にし、庸行これ慎み、邪を閑ぎてその誠を存し、世に善くして伐らず、徳博くして化す。易に曰く見龍田にあり大人を見るによろしとは君徳あるなり。九五に応ぜんとして心がしきりに動くから腓に咸ずる象。腓とは脛の裏側のふくらはぎ、歩行の時足に応じてまず動くもの。腓に感じて軽率に動くのは凶であるが、柔順の徳を持してじっとして静かに止まっていれば吉である。道に従う心があれば害にはならぬという事である。陽剛居中、剛中の徳をもって初陰と出遇い、その進もうとするのをぴたりと抑えとどめる。たとえて言えば包に魚を包み込むようなもので、こうすれば咎はない。もしその進むのをおさえとどめないで、賓すなわち他の陽にまで遇わせるようなことではよろしくない。