陽剛居正、九二と同じく鼎の腹中に実が満たされている象ではあるが、九二と違って六五はその正応ではない。従って六五に応じようとしても、鼎の耳がとれてしまって持ち上げることができないような状態で行こうにも先ふさがりであるし、せっかくの実である雉の膏身も人に食べてもらえない。しかしやがては陰陽相和して雨を得ることにもなろうから、その悔は欠けてなくなり、最後は吉である。その筋道を失していることである。山を管理する役人の道案内もなく鹿を追いかければただ林の中に迷い込むのと同じである。故に君子は危険の兆しを見てとったなら往くのをやめる方が良い。強いていけば吝つまりあまり良いことはない。過剛居正、小人を決去しようという意気が壮んで頄(頸骨)にまでそれが現れている。このように気に逸るのは凶である。しかし君子たるものは決去するべき小人上六と正応の地位にあり、これと和合して雨に遇い濡れるのではないかという嫌疑を蒙り、人から慍りを受けることがあるかもしれないけれど、その本領を忘れることがなければ咎はない。最終的には咎のないことである。陰柔不中正で、まだ坎険の中から脱することを得ないから、事いまだ済らず、積極的に前進して事を済そうとするのは凶であるが、上九の正応があるから時機がくれば大川を渉るような大事に踏みきって利よしい。その地位が不当だからである。陽剛居正、まさに陽剛の徳を発揮するべき時で、その昔高宗が国内を平定したのち、さらに鬼方の蛮族の征伐に向かったことがその事例にあげられる。しかし3年かかってやっとこれに打ち克つことができたように、成功をおさめるのは容易なことではないのだから、小人を用いて事を誤まることがあってはならない。苦労して憊れはてる事である。