陰柔居極、苦節の象。あまりに窮屈(貞固)に規律を守ろうとすると、かえって凶ではあるが、もちろん節度のないことよりはましであるから、その悔も消滅する。その道が行きづまるからである。過剛居極、旅に出て驕り高ぶり、人に憎まれて安んずる場所を得ない。たとえて言えば高い木の梢に巣くった鳥がその巣を焚かれるようなもの。この旅人もはじめは驕り高ぶって笑っているが、後には泣き叫ぶような破目に陥る。驕り高ぶるという事は牛を易(国境)で見失ってしまったようなもので、凶である。道理から言ってもその巣を焚かれるのは当然である。最後までそれを失ったことに気づかぬことである。陽剛居極、頤養の道の極地であり、六五の君すら自分にたよって万民を養おうとする。言うなれば天下皆自分によって養われる象でありその責任は重大で危険であるけれども吉であり、大川を渉るような大事を決行するにもよろしい。やがて大いに慶びを得られるからである。過剛居極、中孚の極、誠意に欠けるというのではないが、自信がありすぎて実行がそれに伴わない。たとえて言えばろくに空を飛べない翰音(鶏)が天に登ったようなもので、その初心が貞正であっても結果は凶である。どうして長く飛び続けることが出来ようか。