陰柔不中正、震雷に遭いおそれおののいて蘇蘇(茫然自失)たるありさまながら、よくおそれ慎んで初九と共に協力して、前に進むすべを考えれば眚にかからずに済む。その位が不当。陽剛居中、巽順の態度が度をすぎて、牀(寝台)の下にはいつくばうようなありさま。しかしながら紛若(紛然、しきりに繰り返すこと)として史(神主)や巫(みこ・かんなぎ)を用い神に祈るような心構えで人に誠意を尽くせば、それなりに吉であって咎はない。剛中の徳を得ているから度を過ごすことにはならないのである。柔順中正、能く九五の君を輔けて国難に当り、成敗利鈍を顧みずに力を尽くす象。王臣となり蹇蹇(艱難辛苦の多いさま)として事に当たるがその苦労はもとより自分一個人のための事ではない。結果がどうあろうと終に尤はないという事である。陽剛居中の身で六五の人に応ずる。賢女の身で愚夫の配偶を得た象で、せっかく内助の功を尽くしてもあまりうだつはあがらない。眇 片目で物を見てもあまり遠くまでは視力がおよばないようなものであるから、幽人 幽静の徳を守り貞正の態度を失わずに婦道を全うすることがよろしい。婦としての常道をとり失わずにいることである。柔順中正、正応の九五に遇おうと思っても、初・三の二陽に挟まれて上進することが意にまかせない。たとえて言えば、婦人が外出しようという際になってその弗(車の覆い、婦人は古代中国では外出の時に車に蔀いをかけて外から見えぬようにした。)をなくしてしまうようなものだが、中正の徳を備えているのだから無理をする必要はない。亡くした弗を追い求めなくても、七日ぐらいたてば戻ってきて、時期が来れば進むべき機会はきっとやって来る。行いが道理にかなっているからである。