陽剛居中、六五の主と正応の身ではあるが、睽違の時期なのでなかなか相遇う事がかなわず、探し回ったあげくやっと街中の巷で邂逅することができる。本来の大通りでの会い方ではないが咎はない。まだ道を失ってはいないからである。柔順中正、能く九五の君を輔けて国難に当り、成敗利鈍を顧みずに力を尽くす象。王臣となり蹇蹇(艱難辛苦の多いさま)として事に当たるがその苦労はもとより自分一個人のための事ではない。結果がどうあろうと終に尤はないという事である。柔順中正、正応の九五に遇おうと思っても、初・三の二陽に挟まれて上進することが意にまかせない。たとえて言えば、婦人が外出しようという際になってその弗(車の覆い、婦人は古代中国では外出の時に車に蔀いをかけて外から見えぬようにした。)をなくしてしまうようなものだが、中正の徳を備えているのだから無理をする必要はない。亡くした弗を追い求めなくても、七日ぐらいたてば戻ってきて、時期が来れば進むべき機会はきっとやって来る。行いが道理にかなっているからである。柔順中正 中正の徳があって罪人を裁くのであるから膚肉 柔い肉を噬むように容易な事であるべきはずである。ただ柔順の身で強剛の相手(初九)に対するのであるから裁き方が厳しすぎると時には肉を噬みそこなって自分の鼻を傷つけるぐらいの害にあうことはあるかもしれない。しかしそれぐらいの厳しさはあっても咎はない。剛の上に乗っているからである。