陽剛居中、順中孚誠の徳あって二陰の下に在るが、その徳おのずからあらわれて在下の初九もこれに和し親しむ。たとえて言えば、鶴が岩陰で鳴けば、小鶴(初九)もこれに声を合わす象。またこの人の孚誠の徳は美酒を盛った爵(さかずき)にもたとえられるが、その徳をひとり占めすることなく他にもわかち与えてともに酔い楽しもうという象である。心の底からそれを願うことである。柔順中正、在下有徳の賢者、陽剛の君主に遇って平生の抱負を実現しようとし上に進もうとするが、九三・九四の上に居るのは陰柔の六五である。つまり父(九三)や祖父(九四)を過ぎて進み、妣(祖母)たる六五に遇うの象。かくて理想の君主には及び得ないが、自分としては在下の臣としての道に叶って行動するのであるから、咎はない。及び得なくても臣としての道は分を過ぎてはならぬということである。陰柔居中、もとよりおのれに相応しい陽剛の人を求めてその養いに頼るべき身であるが頤養の道は目上の者が目下の者を養うのが本筋である。ところがこの卦の陽剛は初九・上九の2爻だけである。故に初九に養いを求めるとすればさかしまに養われることになって常道にもとることになるし、さりとて上方の丘(上九)に養いを求めるとすれば遠きに過ぎてしかも正応の人ではないから行っても凶である。行っても相手が本来頼るべき同類ではない。柔順中正、上からこれを益してくれるものがある。貝貨20枚分つまり価値の高い亀甲で占っても外れるはずがない。ただ柔順にすぎて貞正を守り通せない心配もあるから、いつまでも貞正を固守し得れば吉である。王者がこの六二のような人を用いて上帝を亨れば上帝も喜んでこれを受け入れるだろうから吉である。外から益してくれるものがやって来ることであり天の助けを得るのである。応爻の剛を持たぬから、剥が次第に進み今や壯の弁にまで及んだ象。邪が貞を滅ぼそうとするから凶である。まだ正当な相手を得られないからである。