過剛居正、小人を決去しようという意気が壮んで頄(頸骨)にまでそれが現れている。このように気に逸るのは凶である。しかし君子たるものは決去するべき小人上六と正応の地位にあり、これと和合して雨に遇い濡れるのではないかという嫌疑を蒙り、人から慍りを受けることがあるかもしれないけれど、その本領を忘れることがなければ咎はない。最終的には咎のないことである。一人上九の陽に応ずるのであるからかえって上下の陰から自分をはぎ取って上九を剥害することをせぬ。このようでなければ咎なきを得る。仲間付き合いを捨て去る。君子終日乾乾し夕べにて惕若たり。あやうけれども咎なしとは何の謂いぞや。子曰く、君子は徳に進み業を修む。忠心は徳に進む所以なり。辞を修めその誠を立つるは業に居る所以なり。至るを知りてこれを至る。ともに幾べきなり。終わるを知りてこれを終わる、共に義を存するべきなり。この故に上位にありて驕らず、下位にありて憂えず故に乾乾す。その時に因りて惕る。危うしといえども咎なきなり。陰柔不中正でしかも無応。来たって下の九二とひそかに悦びを通じる象だから、凶である。位が不当だからである。過剛不中、家人を治める者のありかた。治め方を厳しくすれば家人はきゅうきゅう言って悲鳴を上げるが、治め方の厲しさを悔いるぐらいであれば家道を失わずに吉を保つことができる。反対に緩やかすぎて女子供がいつもきゃあきゃあ笑いこけるしまりのなさでは結局において吝である。放縦に流れるよりは、厳格過ぎる方が結局は宜しいことになる。家を治める節度がない。