柔順中正、能く九五の君を輔けて国難に当り、成敗利鈍を顧みずに力を尽くす象。王臣となり蹇蹇(艱難辛苦の多いさま)として事に当たるがその苦労はもとより自分一個人のための事ではない。結果がどうあろうと終に尤はないという事である。陽剛居中、六五の主と正応の身ではあるが、睽違の時期なのでなかなか相遇う事がかなわず、探し回ったあげくやっと街中の巷で邂逅することができる。本来の大通りでの会い方ではないが咎はない。まだ道を失ってはいないからである。陽剛居中、六五の正応があるけれども、よく恭順中庸の態度を守って妄進せず、車の輪を曳きもどしてみずから止まる象。貞正で吉である。中庸の徳を守り正道を行うからである。陽剛居中無応、才徳が皆無でないまでも、まだ十分にそれを発揮できる地位ではない。たとえて言えば井谷(井戸の水が湧き出すくぼみ)から出る水の分量がまだ少なくてやっと井戸底の鮒に注ぐ程度、また井戸に水がありながら、これを汲みあげるつるべがこわれていて水漏りするようなもの。見方になって助けてくれる応爻がないからである。