陰柔居初、もと九四と正応の関係にあって、これに応ずる誠意は持ちながらも、間に挟まる六二・六三の二陰に牽制されてその誠意を全うすることができず、あるいは取り乱したり、あるいは萃まるべきではない相手の六二・六三と萃まってみたりして態度が定まらない。しかし本来の正応は九四なのだから、もし誠意を込めて泣き号べば、必ずや九四の陽がこれを聞きつけて応じてくれ、たちまちに(一握して)笑いさんざめく立場におかれるであろうから、決して憂うる必要はない。思い切って前進すれば咎はないであろう。志が乱れることである。上に進もうとする志が強いが正応たる六四の陰爻に引きとどめられ引き返して正道を守るを得た。どうして咎があるはずがあろう。吉である。その行いの正しさが吉なのである。陰柔不正無応、漸むべき時のはじめに当って、力弱くしかも上で応じてくれる者もないので、つい思いためらう。鴻は行列の先後に順序があり、その往来も寒暑に応じて時あり、漸進の意味にかなうので、この卦の六爻はすべてたとえを鴻に取るが、してみれば初六は鴻が水際まで進み来って、さて陸にあがろうかどうか思いためらう象。人で言えば力弱く才の薄い小子(若者)であるから、進もうとしても危険である。しかし慎重にかまえて漸進することを心がければ、たとえ他から多少の非難はあっても咎なきを得る。義理の点では咎のないことである。居正無応、時に随って一つのことにとらわれない、例えていえば官(役人)が時に変わる事があるのと同じで、変わったとしても貞正を守れば吉である。家の門から出て、広く他人と交際するようにすれば成功を収め得る。正道に従っていれば吉なのである。失敗にはならぬということである。