陽剛居極、初め正応の六三と感情が睽違して孤独であり、疑いの目でこれを見るからたとえて言えば相手が背中いっぱいに泥をこびりつけた豚のように汚らわしいものに見え、また一台の車にいっぱいの鬼(幽霊)が乗ってきたかのように妄想恐怖をたくましくすることになる。従って初めは相手を警戒して弓の弦をはり戦いの気構えをするが後には疑惑が解消するから弓弦をはずす。つまり相手が侵寇しようとするのではなく自分と縁組みしたがっているという心が納得される。だから進んで雨に遇う陰陽の和合を得ることに心がければ吉である。もろもろの疑惑が解消されるからである。陰柔居極、進んで難を救おうとすればますます蹇む事になるが、とどまって九五の君と共に事に当れば大いなる功績をたて得て、吉である。九五のような大人に出会うことがよろしい。君という貴い身分の人に従う事である。陰柔居極、才能が不足しているのに強いて事を済そうとするのだから。狐が川を渡ろうとして尻尾どころか頭の先までずぶ濡れになってしまうようなもので、危険である。どうして長くそのままでいられるはずがあろうか。陰柔居極無応、徳が薄く配偶を得られない。せっかく婚約を交わしてもその結婚は成立し得ない。たとえて言えば、女が嫁入りの仕度に竹籠を受け取っても中身が入っておらず、男が婚礼の用意に羊を割いてみても不吉なことに血が出ない。誠意のない相手である。これでは万事によろしくない道理である。中身の入っていない竹籠を受け取るという事である。