陰柔不中正でしかも無応、帰妹に際して正夫人たり得ず須(卑賤の女)として随う象、換言すれば娣(前出)として帰嫁すべきである。相手を待つべき。まだ正しい位に当っていないからである。過剛不中無応、鴻が水を離れて陸地まで進みながら落ち着きを得られぬ象。しかも九三は正応を得られぬままに、すぐ上の六四に私比しようとする。これは夫が(九三)が家を外に六四と浮気して帰らず、婦(六四)も不貞の子を孕んで育てようとしない象だから、凶である。ただ九三の剛に過ぎる性格からすれば、敵の来寇を禦ぐにはよろしい。本来の群衆(仲間)を離れて勝手に行動することであり、婦孕みて育わずというのは正しい女の道を失った振舞いだからである。もって寇を禦ぐに利よしというのは、仲間と和順しておたがいに助けあえるからである。陽剛居正、まさに陽剛の徳を発揮するべき時で、その昔高宗が国内を平定したのち、さらに鬼方の蛮族の征伐に向かったことがその事例にあげられる。しかし3年かかってやっとこれに打ち克つことができたように、成功をおさめるのは容易なことではないのだから、小人を用いて事を誤まることがあってはならない。苦労して憊れはてる事である。過剛不中、しかも乾卦の極に居るから、事に当たって壮に過ぎやすい。壮んなうえに壮な状態である。従って小人はとかく壮を用いる事において度をすごしやすいが、君子はその度をすごすことがない。もし壮を用いることの度が過ぎればいかに目的が貞正であっても危険である。たとえて言えばもともと強情な性質のあり羝牛(牡牛)が妄進して藩に触れその角をひっかけて進退に苦しむようなものである。小人はとかく壮を用いやすいが君子にはそのようなことがない。過剛居正、小人を決去しようという意気が壮んで(頸骨)にまでそれが現れている。このように気に逸るのは凶である。しかし君子たるものは決去するべき小人上六と正応の地位にあり、これと和合して雨に遇い濡れるのではないかという嫌疑を蒙り、人から慍りを受けることがあるかもしれないけれど、その本領を忘れることがなければ咎はない。最終的には咎のないことである。