陰柔居極、共に萃まり楽しむべき人が得られずその地位に安んじない象。そこで齎咨(嗟き悲しむさま)し、涕(目の涙)洟(鼻から出る涙)を流すことになるが、その地位に安んじないで、自ら悲しみ憂えて反省すれば、咎なきを得る。実がなく応爻も無くて孤立し、ただ嘆き悲しんで、その位に安んずることができない。したがって志を遂げることはできないのであるが咎を受けることはないのである。楊剛居極、大蓄の時もすでに極まって、道が大いに通じようとする時期。あたか四通八達の天路を背にして行動するがごとく自由に通達する。道が大いに行われることである。陽剛居極、鴻が逵すなわち天空はるかなる雲の大路にまで飛び進んだ象。その羽は美しくりっぱで儀(儀式の飾り)に用いるに足るほどで、吉である。立派で乱すことができないからである。否塞の極やがて否塞の時を傾けて通泰の時を迎え得るであろう。だからはじめはふさがっていても後には喜ぶ時が来る。どうして否塞がいつまで続くはずがあろうか。