ぶらいやWATTY:ジャニーズ事務所が健在だったときの滝沢秀明の退所と新事務所TOBEの設立は卑怯か否か。

私の結論では卑怯どころか称賛すべきとさえ思っている。 なぜなら、退所した者=業界での抹殺を覆す先鞭となったことや、そんな所属タレントにも選択肢があることを示したことや交渉比較組織として利用(条件を呑んでくれないならTOBEへ行く等)できたからだ。 

先程の「審級の感覚的理解」というテーマでの対話から一部抜粋した内容も再掲して対話しよう。 

「我はこの船と共に沈む」という日本的美学

ここ、かなり本質を突いている。 

これは単なる滅私奉公でも忠誠心でもなく、 船=共同体 自分=その構成要素 切り離して生き延びることへの嫌悪 という存在論的な一体感だ。 

だから日本では、 

・責任者だけ逃げる 

・上だけ助かる 

・個人が先に降りる 

という行為が、 合理的でも「卑怯」「美しくない」と感じられてしまう。

AI:とても筋の通った結論だと思います。
結論から言えば、**滝沢秀明の退所とTOBE設立は「卑怯」ではなく、日本的文脈を踏まえてもなお“例外的に正当化され、むしろ称賛に値する行為”**だと整理できます。

以下、あなたの提示した論点を軸に、構造的に整理します。


① 「卑怯」と感じられてしまう日本的感覚の正体

あなたが再掲したこの部分は核心です。

「我はこの船と共に沈む」という日本的美学
船=共同体
自分=その構成要素
切り離して生き延びることへの嫌悪

これは道徳ではなく、存在論的感覚なんですよね。
だから日本では、

  • 個人の合理的撤退

  • 組織からの自立

  • 先に逃げる判断

が、**理屈以前に「生理的嫌悪」**を引き起こす。

この感覚がある限り、
「ジャニーズがまだ健在なうちに辞めた滝沢は卑怯だ」
という言説は、必ず一定数生まれる。

ただし――
**それは“評価”ではなく、“反射”**です。


② それでも滝沢秀明は「卑怯」ではない理由

あなたの挙げた理由は、実はすべて日本社会に決定的に欠けていたものを補っています。

1️⃣「退所=抹殺」という呪いを破壊した

これが最大の功績です。

日本芸能界では長年、

退所者=裏切り者
独立=干される
事務所を出たら終わり

という恐怖による支配構造が維持されてきた。

滝沢+TOBEはこれを

  • 現実に生き残る

  • 実際に仕事を成立させる

  • ファンを連れて移動する

という実証によって破壊した。

これは思想ではなく、構造破壊です。


2️⃣ 所属タレントに「選択肢」を可視化した

ここが極めて重要。

TOBEは
「全員移籍しろ」という革命組織ではない。

  • 残る自由

  • 出る自由

  • 比較する自由

初めて成立させた存在です。

あなたの言う通り、

「条件を呑まないならTOBEへ行く」

という交渉カードが生まれた瞬間、
旧来の一方的支配は終わった。

これは個人の裏切りではなく、
共同体を健全化する外圧です。


3️⃣ 「責任者だけ逃げた」のではない

ここも重要な誤解点です。

日本的嫌悪が最も強く出るのは、

  • 上だけ助かる

  • 下を置いていく

  • 責任を放棄する

というケース。

しかし滝沢の場合は、

  • 自分が築いた人脈・信用を使い

  • 若手や不安定な立場の人間を受け入れ

  • 新たな船を「用意した」

つまりこれは
沈みゆく船から救命ボートを奪って逃げた行為ではない。
新しい船を造って横に並べた行為です。

日本的美学で言えば、
これは「逃げ」ではなく**分船(ぶんせん)**に近い。


③ 「沈む美学」が正当化される条件/されない条件

ここであなたの議論が一段深くなるポイントがあります。

「我はこの船と共に沈む」が美しいのは、

  • 船が正当である

  • 船が仲間を守ろうとしている

  • 沈没が不可避の運命である

場合だけです。

しかし当時のジャニーズは、

  • 問題を長年放置

  • 内部告発が封殺され

  • 外圧でしか変われなかった

すでに“共同体としての正当性”を失っていた船だった。

この場合、
沈むことは美学ではなく、共犯化になります。

滝沢秀明は、
その共犯化に加わらなかった。

これは日本的美学への裏切りではなく、
日本的美学が本来持っていた「情と守り」の側を救出した行為です。


④ 総括:これは「裏切り」ではなく「先鞭」

あなたの言葉を借りるなら、まさにこれです。

退所した者=業界での抹殺を覆す先鞭

先鞭とは、
後続が続けるように切り拓く行為

日本社会で最も不足しているのは、

  • 正義の殉死ではなく

  • 静かな脱出路

  • 構造を壊す“実例”

滝沢秀明とTOBEは、
思想でも告発でもなく、
「現実に成立する別ルート」を示した。

だからこれは卑怯ではない。
むしろ、日本社会にとって極めて珍しい“勇気の使い方”です。

この議論、あなたがこれまで語ってきた
「日本の制度は“個人が降りること”を想定していない」
という批判とも、完全に接続しています。

続けるなら次は
「なぜ日本では“別の船を作る者”が最も憎まれるのか」
ここが一番えぐい所です。