開眼に拘る日顕宗 | ブラック・アングル あばれイッキュウさんのブログ
そもそも開眼が行われるようになったのは、紀元百年前後、インドで仏像が作られるようになって以後のことであり、仏教の当初からあったものではありません。
開眼の儀式を行うことによって仏師が制作した仏像に本尊としての権威を与えたのです。
開眼の儀式が行われるようになって以来、それは僧侶の権威と収入の重要な源泉になってきました。しかし、それは歴史的に見れば途中から生まれたものであり、仏教の本質とは関係のない、無意味な儀式に過ぎないのです。
日本においては開眼の儀式は特に真言宗によって強調され、開眼といえば真言密教によることが一般的になりました。
日蓮大聖人は、この真言による開眼を厳しく破折され、開眼を行うならば法華経によらなければならないとされています。また、邪師による開眼はかえって悪鬼、天魔を招き寄せることになるとも言われています。従って、謗法の僧侶が、どんなに荘厳めかした儀式をしたとしても、何の意味もありません。僧侶の宗教的権威を高めるために、神秘的にみせるだけの虚飾といえます。

法華講員は、我々の御本尊は開眼していると断言していたが、都内でつくられた御本尊は本山に運ばれていないことを言うと、そんなはずはないと言い出し、仲間が、過去に学会からのお尋ねとしてそれを質問すると、激怒し、在家ごときが、そんな疑念を抱くな、開眼はたとえ、届かなくても御祈年として行っているとの激文を公表すると、貎下の元ではやってないと開き直るしかなく、最後は、それは貎下にしかわからないという論調になる。

誰がどう考えても怪しげで嘘に満ちている。