大阪都構想にしても、仮にこんな失策で失敗し、府民が損害を被っても決してそれを認めないでしょう。
これまでの国や自治体の誤った政策でどれほどの損失があっても一度足りとも謝罪どころか認めたことがありましたか?
役人政治家の手に追えないのは、たとえ失敗に及んでも決してそれを認めようとしないことだ。
福一の原発があんなになり、未だにとんでもない被害を出し続けていても、東電の責任に転嫁し、国の非は認めない。
謝罪1つしない。
薬害エイズしかり、
たった一度だけ、大臣が謝罪したことがあった。
それは優生思想に基づき、ハンセン病で苦しむ患者に対し、さらなる酷い仕打ちをしたことで、後に訴えられ、国が敗訴したことで、国家賠償訴状の控訴をするはずだったが、それを取り下げたことだ。
「最後は報われた」の思いを!
「辞表」胸に首相官邸へ「控訴せず」貫いた厚労相
... それまで赤ペンでメモを取っていた厚労相の坂口力の手が突然、止まった。坂口は泣いていた。――2001年5月14日、ハンセン病国家賠償訴訟の原告団との面談で、元患者の老女が自らの半生を語った時の出来事だった。
9歳で発病。その日、離島の療養所へ。何年も「母に会いたい」と泣き暮らしたが、会えずじまい。亡くなったことさえ知らされなかった。
その後、同じ入所者と結婚。やがて子を宿すが、妊娠8カ月で強制的に早産させられ“殺された”。「小さいけど、元気な産声でした。自分の胸に抱きたかった。その時の泣き声が最初で最後。あの泣き声がいまだに耳から離れません」。想像を絶する話だった。
坂口は元患者らに深々と頭を下げ、謝罪の意を表した。「誠に申し訳ない思いです」。そして心に誓った。「絶対に控訴すべきではない」と。
熊本地裁の「国が全面敗訴」の判決に対し、役所の意見は「控訴すべし」が大勢だった。「控訴後に和解」といった声が流されていた。
だが、坂口の「この裁判は終わらせるべきだ。元患者の皆さんに『大変だったが、生きていて良かった。最後は報われた』と思ってもらえる最後のチャンスではないか!」との思いは微動だにしなかった。
そして、運命の5月23日。その朝の毎日新聞1面には「坂口厚労相が辞意」という見出しが躍っていた。それには坂口自身が驚かされたが、官邸に向かう車中の坂口の胸ポケットには、この朝認めたばかりの「辞表」が用意されていた。
朝9時、官邸で官房長官の福田康夫が言った。「改めて、お考えを聞きたい」。坂口が答えた。「控訴には絶対に反対です」。福田「それは、厚労省の考えですか?」。「官僚たちの考えは別です」と坂口。福田が重ねて聞いた。「大臣の考えと、官僚の考えと、どちらが厚労省の意見ですか?」。坂口は毅然として言い放った。「私が厚生労働大臣です。私の考えが厚労省の意見です」
首相の小泉が原告団に面談したのは夕刻。その直後、政府は見解を発表した。「控訴せず」と。
後日、財務相の塩川正十郎は、坂口に語った。「あの朝刊の1面記事は、首相には、ものすごいパンチだったよ」
「控訴せず」の政府決定を受けて6月1日、坂口は改めて原告団代表に会い、正式謝罪した。その後、坂口と厚労副大臣の桝屋敬悟らは手分けして全療養所施設を訪問し謝罪した。
後に、坂口は語った。
「政治家は、自分を犠牲にする覚悟があって初めてできる職業。好きでやっている人がいるとすれば、それは政治屋である。そして、私は政治家である前に、一人の人間であり、医師である」