今の日本には、利害以外の価値基準がない。いわば「不動の定点」がない。「これだけは、ゆずれない」という不動の基準がなければ、社会の漂流化は必然だ。
かつて評論家の加藤周一氏は、日本の「なしくずしの軍国主義化」をもたらすものとして、大衆報道機関の「中道主義」を、次のように批判した。
「中道主義」とは、「対立する意見の真ん中を探る」ことであるから、「対立する意見の一方が、なしくずしに右へ寄れば、真ん中もなしくずしに右へ寄るから、中立主義はどこまででも右へ寄ることを妨げる立場ではない」(『現代日本私注』)
対立する二者の中間点は、「定点」ではない。対立自体の基盤が移動すれば、中間点も移動する。「中立」を維持しようとする余り、自分たちがどこへ動いているのか分からなくなることすらある。
ナチズムの暴虐をどうして食い止められなかったのか。
ドイツの言語学者は言う。
「何処に向かって、どうして動いて行くのか見極められないのです。一つ一つの事件は確かにその前の行為や事件よりも悪くなっている。しかしそれはほんのちょっと悪くなっただけなのです」(丸山真男「現代における人間と政治」から)
「中立主義」とは独自の価値判断を主張せず、両者の中間点に立つことだから、実質的には「思考の停止」を伴う。その結果は「現実追認主張」。これに大勢順応主義が加わって、なしくずしが完成する。
「信なき言動、煙のごとし」との言動通り、信念の柱を欠いた言論は、風が吹けば、風に従い、煙のように流されるのみ。果ては、権力の煙幕に利用されるのがオチ。
「絶対的価値でなければ、歴史やいくさに押し流されない力の出てくるはずがないだろう」(加藤周一「戦争と知識人」)
今の「なしくずし」を防ぐには中立主義ではなく、人権という動かぬ原則を声高く主張することが不可欠なのである。