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大地と共に生きる建築——アボリジニの先住民族建築(ヴァナキュラー建築)

ヨーロッパ人がオーストラリアの地に足を踏み入れたとき、彼らの目に映ったのは「建物のない土地」だった。しかし、それは見る目を持っていなかっただけの話だ。1788年のイギリスによる入植が始まる以前から、オーストラリア大陸にはおよそ30万人もの先住民族が暮らし1、気候・地形・社会構造に深く根ざした多様な建築様式を数万年かけて発展させていた。これが、オーストラリア建築史の本当の出発点である。建築とは石やコンクリートでできた「建物」だけを指すのではない。大地と人間の長い対話のなかで生まれた空間的実践のすべてが、建築史の射程に入る。

 

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「建築がなかった」という神話を解体する

入植者たちは先住民族の構造物を「原始的な小屋」と見なし、建築と呼ぶには値しないと考えた。この誤解は長く続いたが、建築人類学者ポール・メモット(Paul Memmott)の研究によって体系的に覆された。クイーンズランド大学アボリジニ環境研究センターを数十年にわたって率いてきた彼の著書 Gunyah, Goondie + Wurley: The Aboriginal Architecture of Australia(2007, University of Queensland Press)は、大陸初の包括的な先住民族建築調査として高く評価されており、受賞歴も持つ。

そのメモットはこう述べる。「入植以前の支配的な建築カテゴリーは住居建築であり、居住キャンプに使用される多様なシェルタータイプが含まれていた」2。建築がなかったのではなく、西洋の目には「見えていなかった」だけだ。植民地エスノグラファーたちが先住民族の住居の記録を始めたのは1870年代からであり3、それ以前の観察者たちが残した記述は植民地的偏見に満ちていた。メモットが「エスノ・アーキテクチャー(ethno-architecture)」と呼ぶアプローチは、建築を社会・文化・環境との不可分な関係として捉え直すものだ。

気候と文化が生んだ多様なシェルター

アボリジニの建築は「一種類の小屋」ではなかった。その形態は地域の気候・社会構造・家族規模・入手できる素材によって驚くほど多様に分岐していた4。大陸の広大さを思えば当然のことだが、熱帯雨林・砂漠・温帯海岸という三つの異なる生態系を抱えるオーストラリアでは、建築のかたちもそれぞれの環境と交渉しながら独自の発展を遂げた。

主な構造タイプとしては、樹皮や枝を組んだ軽量のグンヤ(Gunyah)、低木や草で覆われたドーム型のウーリー(Wurley)、砂漠地帯向けの風防を兼ねたウィルチャ(Wiltja)、クイーンズランドなど北部地域のゴンディ(Goondie)などがある。クイーンズランドやタスマニアの熱帯雨林地帯ではカゴヤシの葉を使ったドームハウスが建てられ、アーネムランドではパルムリーフのクラッディング技術が発達した5。西部砂漠では食糧の乏しさと不規則さに対応するため、人々は高い移動性を維持し、建築もそのライフスタイルの延長として設計された6。スピニフェックスグラスを外装材とする弓形シェルターや、木製フレームに粘土を塗り固めた半恒久的住居まで、素材と技法の幅は現代建築家も驚くほど広い。

重要なのは、構造が「単純」だからといって「粗雑」ではないという点だ。それぞれの形態は、長い時間をかけて気候・地形・社会関係を反映しながら洗練されてきたものだ。

ウィンドブレークと「屋外に生きる」という哲学

建築研究者ティム・オルーク(Tim O'Rourke)は、風防と日よけ構造をアボリジニの代表的シェルタータイプとして論じ、これらが植民地以前の構造物の形と機能を現代まで参照し続けていると指摘している7

より本質的なのは、それが単なる素材の選択ではなく、哲学の違いだという点だ。アボリジニの多くの文化では、「密閉された屋内に住む」のではなく「屋外の周囲で暮らす」という生活スタイルが好まれた。これは社会的なつながりを維持し、コミュニティの紐帯を保つための空間的選択だった8。キャンプ全体がひとつの建築的単位として機能しており、火を中心に家族や親族が円弧状に配置される空間構成は、西洋的な「部屋で区切られた住宅」とは根本的に異なる空間秩序を示している。オルークはさらに、「ウィンドブレークと日よけ構造の持続的使用が、独特の先住民的社会性の形式を維持・促進した」と論じており8、植民地時代に強制された西洋式住宅が先住民コミュニティの社会的凝集力を損なった一因とも考えられている。

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バジュ・ビム:定住社会の証拠

「アボリジニはすべて遊牧民だった」という誤解をもっとも力強く覆す場所が、ビクトリア州南西部に位置するバジュ・ビム(Budj Bim)文化的景観だ。

ここはグンディッチマラ(Gunditjmara)の人々が少なくとも6,600年以上にわたって使い続けてきた場所であり、玄武岩の溶岩流を利用した複雑な水路・堰・罠からなる水産養殖システムを持つ9。炭素年代測定によってエジプトのピラミッドやストーンヘンジよりも古いことが確認されており、2019年にはオーストラリアで唯一「アボリジニ文化的価値のみを理由に」世界遺産登録された10。Engineers Australia(オーストラリア技術者協会)もバジュ・ビムを「国内トップクラスの工学的成果のひとつ」として評価している。

さらに注目すべきは、この周辺に少なくとも146〜300棟の石造住居の痕跡が残されている点だ11。石積みの円形壁は1メートル以上の高さを持ち、土製またはスピアグラスで覆われたドーム屋根で覆われていた12。壁の建材となった玄武岩は、バジュ・ビム火山の溶岩流がもたらしたものであり、景観そのものが建築資材の供給源でもあった。

モナッシュ大学の先住民考古学者イアン・マクニーブン(Ian McNiven)教授はこう述べる。「グンディッチマラは自然が提供するものを受動的に受け取るのではなく、積極的かつ意図的に水の流れと生態系を操作し、ウナギの入手可能性と安定供給を高めるための景観をエンジニアリングした」13

石造住居の構法と集落の空間構成

バジュ・ビムの石造住居群は、単なる「避難小屋」ではなかった。グンディッチマラの人々は、水産養殖システムと一体化した定住集落を形成しており、ウナギの漁期に合わせて複数のクラスターが湖岸の溶岩尾根沿いに配置されていた。モナッシュ大学によるクルトニッチ(Kurtonitj)石造住居の発掘調査(2017年)では、金属製遺物の年代測定から1840年代〜1860年代にかけての継続的使用が確認されており、ヨーロッパ人との接触後も建築様式が維持されていたことが示されている14

石造住居の建設には、地域の玄武岩を積み上げる乾式石積み(ドライストーン)技法が用いられた。これはヨーロッパの伝統的な石積みと構造的に類似しているが、グンディッチマラの技法は火山性溶岩地形を巧みに利用した独自の発展を遂げたものだ。Darlot Creekに沿って確認された遺構は、一部で1,700年以上の建設年代が示唆されており15、これが単発的な工作物ではなく長期にわたる工学的実践の積み重ねであることを物語っている。

空間に込められた社会と文化

アボリジニのシェルターは、単なる「雨露をしのぐ場所」ではなかった。キャンプの空間配置には、親族関係・性別役割・儀礼的秩序が反映されており、建築物の配置そのものが社会構造のダイアグラムとして機能していた16。例えば多くのアボリジニ・コミュニティでは、火を中心とした円弧状の配置が基本単位となり、特定の親族グループが特定の方位に居住するというルールが建築的に実現されていた。

ランゲージグループによっても名称と形態が異なる。これは、建築が単一の「アボリジニ文化」ではなく、数百もの異なる言語・文化グループのそれぞれの知恵の結晶であることを示している。グンヤとウーリーとウィルチャは、単に形が違うだけでなく、それぞれ異なる社会的文脈・精神的意味・使用規範を持つ別々の建築的解答だったのだ。

まとめ:建築史は1788年以前から始まっている

オーストラリアの建築史をイギリス入植から語り始めることは、この大陸の建築的知性の大部分を黙殺することに等しい。グンヤやウーリーから石造集落まで、先住民族の建築は気候・社会・精神世界を一体として構築した、洗練された空間的実践だった。バジュ・ビムはその極点として、定住・農業・工学・建築が高度に統合されたひとつの文明の証拠を今日に伝えている。

次の記事では、1788年のイギリス第一船団到着後、この豊かな建築的文脈の上に「植民地建築」がどのように重ね書きされていったかを見ていく。

 

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注釈

1 Memmott (2007) は入植開始時の先住民族人口をおよそ30万人と推定している。この数字は植民地化以降の急激な人口減少を背景に、現在も議論が続くテーマである。

2 Memmott, P. (2007). Gunyah, Goondie + Wurley, p.xx. 原文:"The dominant category of architecture prior to the British invasion was domestic, comprising a considerable range of shelter types used in residential camps."

3 Academia.edu掲載論文 'Australian Indigenous Architecture: Its Forms and Evolution' (2025参照). 植民地エスノグラファーによる住居記録の開始時期についての記述より。

4 Wikipedia: Indigenous Architecture (2025). シェルターの形態が気候・社会組織・家族規模・文化的ニーズ・利用可能な資源によって異なっていたという記述より。

5 Memmott (2007), p.100. アーネムランドとケープ・ヨークにおけるパルムリーフのクラッディング技術についての記述より。

6 Memmott (2007); Johns Hopkins University Press による書評 (2008). 原文:"within the Western Desert 'cultural bloc,' peoples were highly mobile in response to scarcity and unpredictability of resources, so the architectures of this region are an extension of a nomadic livelihood."

7 O'Rourke, T. (2017). 'Aboriginal bush materials in contemporary architecture.' Architecture Australia. 原文:"Windbreak and shade structures built in the twenty-first century clearly reference the forms and functions of pre-colonial structures."

8 同上。O'Rourkeは「ウィンドブレークと日よけ構造の持続的な使用が、独特の先住民的社会性の形式を維持・促進した」と論じている。

9 Australian National Heritage listing (2004); UNESCO World Heritage Centre (2019). 炭素年代測定で6,600年以上前と確認されている。

10 UNESCO World Heritage Centre (2019). Budj Bim Cultural Landscape. 2019年に登録されたオーストラリア20番目の世界遺産物件であり、先住民文化的価値のみを登録理由とする唯一の事例。

11 Creative Spirits (2021) は「少なくとも146棟」、Global Voices (2026) をはじめとする複数の資料は「約300棟」の石造住居跡を報告しており、発掘調査の進展により数が更新されている。

12 Wikipedia: Indigenous Architecture (2025). 石積みの円形壁が1メートル以上の高さを持ち、土またはスピアグラスで覆われたドーム屋根を持つという記述より。

13 McNiven, I. (2016). 'The detective work behind the Budj Bim eel traps World Heritage bid.' The Conversation. 原文:"Rather than living passively off whatever nature provided, the Gunditjmara actively and deliberately manipulated local water flows and ecologies to engineer a landscape focused on increasing the availability and reliability of eels."

14 McNiven, I. J. et al. (2017). 'Kurtonitj stone house: Excavation of a mid-nineteenth century Aboriginal frontier site from Gunditjmara country, south-west Victoria.' Archaeology in Oceania, 52(1). 金属製遺物の年代測定結果(c.1840–1870)に基づく。DOI: 10.1002/arco.5136

15 ICOMOS ISCCL (2025). Budj Bim Cultural Landscape紹介ページ。「Remains of 1,700 year old Aboriginal stone house」の表記を参照。denisbin, Flickr, 2015.

16 Memmott, P. (1997). 'Alyawarr,' in Oliver, P. (ed), Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World. Cambridge University Press. キャンプの空間配置と親族関係・性別・儀礼秩序の関係についての記述より。

参考文献

  • Memmott, P. (2007). Gunyah, Goondie + Wurley: The Aboriginal Architecture of Australia. University of Queensland Press, St Lucia. ISBN: 9780702232459
  • Memmott, P. (1997). 'Alyawarr,' in Oliver, P. (ed), Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World. Cambridge University Press, Cambridge.
  • McNiven, I. J. et al. (2017). 'Kurtonitj stone house: Excavation of a mid-nineteenth century Aboriginal frontier site from Gunditjmara country, south-west Victoria.' Archaeology in Oceania, 52(1). DOI: 10.1002/arco.5136
  • McNiven, I. (2016). 'The detective work behind the Budj Bim eel traps World Heritage bid.' The Conversation.
  • The Gunditjmara people with Wettenhall, G. (2010). The People of Budj Bim: Engineers of Aquaculture, Builders of Stone House Settlements and Warriors Defending Country. em PRESS, Heywood, Vic.
  • O'Rourke, T. (2017). 'Aboriginal bush materials in contemporary architecture.' Architecture Australia. https://architectureau.com/articles/Aboriginal-bush-materials-in-contemporary-architecture/
  • UNESCO World Heritage Centre. (2019). Budj Bim Cultural Landscape. https://whc.unesco.org/en/list/1577

テントから煉瓦へ——植民地初期の建築:サバイバルから定住へ

1788年1月26日、11隻のイギリス船がポート・ジャクソンに碇を下ろし、シドニー・コーブに上陸した。乗船していた約775名の囚人と645名の自由人たちは、岸に降り立つや否や、極めてシンプルな問いに直面した——「今夜、どこで眠るのか?」1。彼らの多くはテントと粗末な木材で急造のシェルターを建て、岩と木立の間に身を潜めた。ここから、オーストラリア建築史における植民地時代の幕が上がる。それは「生き延びるための建築」から「定住するための建築」へ、わずか30年余りで劇的に変貌を遂げるプロセスだった。画像

最初の建物——テントと粗末なシェルターの時代

上陸直後の入植地は、西洋的な意味での「建築」とはほど遠いものだった。岩や木の間の汚れたキャンバス地のテント、急造のシェルター、キャベツヤシの葉や小枝と粘土で作られた小屋が散在していた2。建築資材はほとんど持ち込まれず、現地の素材をその場しのぎに使うしかなかった。

ガバナー・アーサー・フィリップ(Arthur Phillip)が1788年5月に書いた書簡には、こう記されている。「植民地の発展に必要なものはすべて欠けており、最も緊急なのは適切な住居の確保だ」3。彼が最初に命じたのは、第一政府庁舎(First Government House)の建設だった。1788年5月に礎石が置かれ、翌1789年には完成したこの建物は、英国から持ち込まれた5,000枚のレンガと現地製の砂岩を組み合わせた2階建てのジョージアン様式の構造物で、オーストラリア本土初の恒久的建造物となった4

植民地初期の建設のほとんどを担ったのは、囚人大工のジェームズ・ブラッドスワース(James Bloodsworth)だった。彼は1788年から1800年にかけて植民地の大半の建物の建設を指揮し、粗削りながら実用的な構造物を次々と立ち上げた5。ガバナー・フィリップにとって建物は単なるシェルターではなく、植民地の秩序と権威の象徴だった。

 

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砂岩が刻む植民地の風景

植民地初期の建築を語る上で欠かせないのが、シドニー周辺で豊富に採取できるシドニー砂岩(Sydney sandstone)だ。黄金色に輝くこの地元産石材は、入植当初から採掘され、植民地建築の基本素材となった6。英国から持ち込んだレンガと砂岩を組み合わせた初期の建物は、素材の制約の中での職人技を示しており、この組み合わせは後のジョージアン様式の建築にも引き継がれた。

テント生活を脱するには数年を要した。1790年代になると木造フレームに粘土を詰めたワトル・アンド・ドーブ(wattle-and-daub)工法や、地元の木材を使った板張り構造が広がった。素材の選択は美学ではなく生存の要請から生まれており、利用可能なものを最大限に活用するという植民地建築の基本的な性格がここで確立された7

 

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マッコーリー時代の幕開け——都市としてのシドニーへ

転機が訪れたのは、1810年に第5代総督ラクラン・マッコーリー(Lachlan Macquarie)がシドニーに赴任したときだった。彼は混乱した囚人植民地を、整然とした植民地都市へと変貌させることを使命と捉えていた。マッコーリーの在任12年間に、NSW植民地では265件もの公共事業が進められた8

彼の都市建設計画において最も重要な役割を果たしたのが、囚人建築家フランシス・グリーンウェイ(Francis Greenway)だ。グリーンウェイは詐欺罪でイギリスから流刑にされたが、1814年にシドニーに到着後、マッコーリーの眼に留まり、1816年に植民地初の公式建築家(Acting Civil Architect)に任命された9。これはオーストラリア史上初めて「建築家」という専門職が公的に認められた瞬間でもあった。

 

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ハイド・パーク・バラックス——囚人建築の最高傑作

グリーンウェイの代表作であり、この時代の建築的到達点と言えるのがハイド・パーク・バラックス(Hyde Park Barracks)だ。1817年から1819年にかけて囚人労働によって建設されたこの施設は、男性囚人を収容する目的で設計された、オーストラリア初の政府建設による囚人収容施設だ10

建築的には、シドニー産の砂岩レンガを使った3階建ての対称的なジョージアン様式で、両翼の小棟が中央の主棟を挟んで広い中庭を形成する構成だ11。その外観は端正で簡素でありながら権威を感じさせ、マッコーリーが植民地に刻もうとした「秩序と文明」の理念を体現している。収容能力は約600名で、当時の男性囚人人口の約3分の1に相当した12

バラックス設立以前、囚人たちは私有の宿舎や酒場を自分で確保しなければならなかった。バラックスはこうした無秩序な状態に終止符を打ち、囚人の労働時間・生活・行動を一元的に管理する装置として機能した13。グリーンウェイはその開館式に際して絶対恩赦を受け、囚人身分から解放された。囚人が設計した囚人収容施設——この逆説的な事実こそ、植民地オーストラリアの複雑な歴史を端的に示している。

現在、ハイド・パーク・バラックスはUNESCO世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群」の11施設のひとつとして登録されており、植民地建築の最高傑作として今日も残っている14

 

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「凶悪な華麗さ」と批判された建築

グリーンウェイの才能はマッコーリーの庇護のもとで開花したが、その野心的なデザインはしばしば本国イギリスから批判を招いた。彼がガバナー邸の馬小屋として設計した建物(現在のシドニー音楽院)は、視察に訪れたイギリス高官から「無用な豪華さ(useless magnificence)」と酷評された15。植民地の公共建築に贅沢を許すわけにはいかない——という本国の論理と、植民地を一流の都市に育てたいというマッコーリーとグリーンウェイの理想の衝突は、植民地建築が常に政治的文脈と不可分であったことを示している。

マッコーリーが帰国した1821年以降、グリーンウェイへの支援は急速に失われ、彼は1820年代に公職を失って貧困のうちに生涯を閉じた。しかしセント・ジェームズ教会(1824年完成)やセント・マシューズ教会(ウィンザー、1820年完成)など、彼の作品は今も各地に残り、植民地初期の建築的記念碑として機能している。

 

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まとめ:生存から「都市」へ

1788年に岸辺のテントから始まった植民地建築は、わずか30年余りで石造りの政府建築・教会・収容施設へと変貌した。その過程を駆動したのは、生存の必要性、囚人労働力という特異なリソース、そしてマッコーリーとグリーンウェイという稀有なパートナーシップだった。彼らが刻んだジョージアン様式の公共建築は、単なる建物ではなく、混乱した囚人植民地が「文明的な社会」へと変容する意志の表明だった。

次の記事では、1820〜1850年代にかけて、こうしたジョージアン様式がさらに成熟・定着し、同時に「囚人建築」という独自のジャンルが確立されていく様子を見ていく。

注釈

1 National Museum of Australia (2024). 'The First Fleet arrives at Sydney Cove.' 到着時の乗客構成:囚人約775名・自由人645名(士官・水兵・海兵隊とその家族を含む)。

2 Museums of History NSW (2024). 'The Convicts' Colony.' 原文:"Scattered among rocks and trees above the foreshore were grimy clusters of canvas tents, makeshift shelters and huts, some of which were clad in cabbage palm leaves, others in twigs and clay."

3 Arthur Phillip to Thomas Townshend, 1st Viscount Sydney, 15 May 1788. Australian Dictionary of Biography, ANU (2017). 書簡より。植民地初期の欠乏状況についての一次資料。

4 Department of Climate Change, Energy, the Environment and Water (DCCEEW) (2024). 'First Government House Site.' 5,000枚の英国製レンガと現地製砂岩レンガを使用。オーストラリア本土初の恒久建造物。National Heritage List 登録 2005年。

5 Wikipedia: First Government House, Sydney (2025). ジェームズ・ブラッドスワースが1788年から1800年にかけて植民地の大半の建物の建設を指揮したという記述より。

6 Wikipedia: Australian non-residential architectural styles (2025). 植民地初期の素材選択についての記述より。

7 Freeland, J.M. (1968). Architecture in Australia: A History. F.W. Cheshire, Melbourne. 植民地初期のワトル・アンド・ドーブ工法および板張り建築の普及に関する記述より。

8 DCCEEW (2024). 'Hyde Park Barracks.' 原文:"Macquarie era saw 265 public works of varying scale being built."(McLachlan 1967 引用)

9 Dictionary of Sydney (2024). '200 years of public architecture.' グリーンウェイが1814年にシドニーに到着し、NSW政府建築家第1号となったという記述より。

10 DCCEEW (2024). 'Hyde Park Barracks.' 「オーストラリア初の政府建設による囚人収容施設であり、マッコーリー時代の囚人管理施設として唯一残る建物」という記述より。

11 Wonderful Museums (2025). 'Hyde Park Barracks Museum.' 原文:"a main three-story brick building, flanked by two smaller wings, all enclosing a spacious courtyard."

12 CityDays (2024). 'Hyde Park Barracks.' 「600名の男性囚人を収容でき、当時の男性囚人人口の約3分の1に相当した」という記述より。

13 DCCEEW (2024). 'Hyde Park Barracks.' バラックス設立前、囚人は自力で宿舎を確保していたという記述より。

14 UNESCO World Heritage Committee (2010). Australian Convict Sites. 2010年第34回世界遺産委員会にてオーストラリア囚人遺跡群として登録。Hyde Park Barracksを含む11施設。

15 Wikipedia: Francis Greenway (2025). 政府厩舎(現シドニー音楽院)が「useless magnificence(無用な豪華さ)」と批判されたという記述より。

参考文献

  • Freeland, J.M. (1968). Architecture in Australia: A History. F.W. Cheshire, Melbourne.
  • Broadbent, J. and Hughes, J. (1997). Francis Greenway Architect. Historic House Trust of New South Wales, Glebe, NSW.
  • Apperley, R., Irving, R. and Reynolds, P. (1989). A Pictorial Guide to Identifying Australian Architecture. Angus & Robertson, Sydney.
  • DCCEEW (2024). 'First Government House Site.' https://www.dcceew.gov.au/parks-heritage/heritage/places/national/first-government-house
  • DCCEEW (2024). 'Hyde Park Barracks.' https://www.dcceew.gov.au/parks-heritage/heritage/places/national/hyde-park
  • Dictionary of Sydney (2024). '200 years of public architecture.' https://dictionaryofsydney.org/blog/200_years_of_public_architecture
  • UNESCO World Heritage Centre (2010). Australian Convict Sites. https://whc.unesco.org/en/list/1306


[現代建築史]スーパーフラット構想と建築



序章:スーパーフラットという文化的鏡

1990年代末、美術家・村上隆が提唱した「スーパーフラット構想」。

これは、日本のアニメやマンガ、オタク文化に見られる“平面的な美意識”を、単なるサブカルチャーではなく、日本文化に根付く根源的な価値観として再評価したものでした。

村上は、浮世絵や琳派、江戸の町人文化の中に見られる装飾性や平面性を、現代のデジタル社会や消費社会と接続し、「高級芸術と大衆文化の境界をフラットにする思想」として提示しました。

「スーパーフラット」とは、つまり文化的ヒエラルキーを解体し、すべての価値を“平面上”に並べ直す行為でもあるのです。

この視点を建築に持ち込むと、私たちは今、空間そのものが“フラット化”していく時代を目の当たりにしていることに気づきます。

第1章:ヒエラルキーを失った建築


建築の歴史を振り返ると、それは常にヒエラルキーの表現でした。

神殿や城、近代の公共建築は、権力や秩序を“上下構造”で示すものでした。

しかし21世紀の建築では、こうした階層性は急速に溶けつつあります。

象徴的なのが、SANAA(妹島和世+西沢立衛)による《金沢21世紀美術館》(2004)です。

建物は大きな円形で構成され、明確な“正面”が存在しません。

外周のどこからでも入れる設計は、都市と美術館、観客と作品、内と外といった境界を限りなく曖昧にしています。

内部も同様に、展示室・ワークショップスペース・カフェが緩やかに連続しており、訪れる人が自分の動線を自由にデザインできる。


この「中心のない構成」「透明で軽やかな空間」は、まさにスーパーフラット的な空間表現の建築的翻訳と言えるでしょう。

建築が“意味の階層”を持たなくなったとき、空間はより多義的で、誰にでも開かれたものになる。

スーパーフラットは、そのような「誰もがアクセスできる建築」の思想でもあるのです。

第2章:表層が意味を持つ時代へ

村上隆の作品は、しばしば「表層的」と評されます。

しかし彼は、まさに“表層そのものを意味化”したのです。

アニメ的なキャラクターや艶やかな色彩は、消費社会の記号を意識的に利用し、その「薄さ」こそが現代のリアリティであると示しました。

この「表層=意味」という転倒は、建築にも強く響いています。

たとえば、藤本壮介の《House NA》(2011)は、透明なガラスと極薄のスラブで構成された住宅。

プライベート空間とパブリック空間の境界が極端にフラット化され、住む人の生活そのものが都市に透けて見える構成です。

内部と外部、個と社会、建築と環境の境界が溶け合う様は、まるでスーパーフラット的世界観を三次元化したような体験を生み出します。


また、隈研吾の「負ける建築」にも、スーパーフラット的感覚が見えます。

巨大で権威的な建築ではなく、素材や周囲の環境と“調和”しながら存在すること。

つまり、建築が自己主張をやめ、環境の中に“平面化”していく方向性です。

自然素材や透過性のある構造体を通して、建築はもはや「オブジェ」ではなく、「場の一部」として溶け込む存在へと変わっています。


第3章:消費社会における建築のフラット化


村上隆が批判的に描いたもう一つのテーマは、「商業と芸術の境界の喪失」です。

アートは市場と切り離せない存在となり、作品は“ブランド化”する。

建築もまた、同じ現象の中にあります。


たとえば、表参道ヒルズ(安藤忠雄設計)や渋谷スクランブルスクエアのような複合商業施設では、「文化・商業・娯楽・情報」が完全に統合されています。

建築がブランドのアイコンとして機能し、同時に消費体験の舞台装置にもなる。

そこでは、文化的価値と経済的価値の区別がほとんど消え、まさにスーパーフラットな都市空間が現実化しているのです。




さらに近年では、デジタルテクノロジーがこの「フラット化」を加速させています。

バーチャル建築、メタバース空間、AR/VR体験など、物理的な立体性を持たない“平面の建築”が社会的リアリティを獲得しつつあります。

村上隆が指摘した「二次元的世界の優位」は、いまや建築のスケールでも実現しつつあるのです。

第4章:スーパーフラット建築の未来

スーパーフラット構想は、決して“薄っぺらなデザイン”を肯定するものではありません。

むしろ、深度や階層を失った現代社会において、「表層にこそ意味を見いだす」という知覚の転換を提案しているのです。

建築のフラット化も同じです。

それは「立体を失う」ことではなく、「すべての関係を同じ地平でつなぐ」こと。

人と人、人と環境、現実とデジタル、公共と私的——

これらを隔てる垣根をゆるやかに溶かし、新しい共存の形を探る建築が、今後さらに重要になっていくでしょう。

その意味で、スーパーフラットは単なる美術理論ではなく、

新しい建築倫理であり、新しい空間認識のためのキーワードでもあるのです

結論:フラットな世界を設計するということ

私たちが生きる現代は、情報も文化も空間も“階層を持たない”時代です。

SNSは誰もが発信者になれる場所であり、都市はさまざまな層が並列的に共存する舞台となりました。

この中で、建築家は「上から構築する人」ではなく、「水平に編集する人」へと変化しています。

写真

スーパーフラット構想が提示したのは、そんな新しい時代の“設計思想”そのもの。

空間を立ち上げるのではなく、

平面の中に無数の関係性を描き出す——

それこそが、これからの建築に求められる感性なのかもしれません。




新国立美術館 ― 黒川紀章の思想とメタボリズムを体現する「成長する公共建築」



東京・六本木に建つ新国立美術館(2007年開館)は、黒川紀章(1928–2007)の晩年の建築思想を象徴的に示す代表作である。黒川は東京大学建築学科を卒業後、フランスでル・コルビュジエに学び、帰国後は日本におけるモダニズム建築の旗手として活躍した。1960年代には、都市の変化や人口増加に柔軟に対応可能な建築を提唱するメタボリズム運動を主導し、「建築は固定的形態ではなく、都市や社会の変化に応答する生命体のような存在であるべき」という理念を掲げた。また、晩年にはメタボリズム思想を発展させ、都市や自然、社会との調和を重視する共生の思想を提唱している。

中銀カプセルタワービル




新国立美術館は、これらの思想を現代の公共建築として体現した作品である。建築計画の中心は、可変性を重視した展示空間にある。常設展示を持たず、壁や間仕切りをモジュール化・可動化することで、展示規模や内容に応じた空間の再構成が可能となる。これは、メタボリズム理論の「固定核(Core)+可変セル(Cell)」の概念を現代的に翻案した設計手法であり、建築を社会や文化の変化に応答する柔軟なプラットフォームとして位置づけている。



外観の波状ガラスカーテンウォールは、都市との連続性を意匠的に表現する重要な要素である。約14,000枚のガラスパネルを曲面状に配置することで、光や天候、時間帯によって表情を変えるファサードは、建築が都市や自然と呼吸する「膜」として機能する。メタボリズムの可変性概念と共生の思想が融合し、建築と都市、内部空間と外部環境の連続性を意匠として可視化している。



内部には二つの円錐台形のRCボリュームが核として存在する。構造的にはカフェやレストランを支える役割を果たしつつ、象徴的には空間の中心として機能する。RC打放しとガラス・金属の異素材の対比は、物質性と非物質性、重さと軽やかさの対比を通じて、空間にリズムと階層性を生み出す。このボリュームは、メタボリズム思想における「固定された核と可変セル」の概念を空間体験として再解釈したものであり、建築全体を「有機的な生命体」として体験させることができる。



また、吹き抜け空間と採光設計により、自然光の変化が内部空間の印象を刻々と変化させる。建築が時間とともに変化することで、訪れる人々は常に新しい空間体験を得られる。この点でも、黒川のメタボリズムと共生思想の融合が如実に現れているのではないだろうか。


新国立美術館は、単なる展示施設ではなく、黒川紀章の思想が結実した「成長する公共建築」である。可変性と核の構造、光と素材の統合、都市や自然との共生という設計手法は、意匠設計者や構造設計者にとって学ぶべきポイントが多い。黒川が提唱した「建築は固定されず、都市・社会・人と共に呼吸する存在である」という理念は、21世紀の公共建築設計においても重要な要素になるだろう。




ブルータリズムってなに?


ブルータリズム(Brutalism)とは、1950年代から70年代にかけて世界中で広まった建築様式です。 特徴は、コンクリート打ち放しの無骨な外観、構造をむき出しにしたデザイン、そして装飾を排したミニマリズムを特徴としています。 「粗野な建築」と訳されることもありますが、その“粗さ”の中にこそ、力強さと静けさが宿っています。

 

アルゼンチン国立図書館

書籍概要

そんな、イタリアのブルータリズム建築を存分に味わえる写真集が『イタリアのブルータリズム建築 無骨ながらも美しいコンクリートデザイン』です。この写真集では、イタリア全土から集められた140点以上のブルータリズム建築が紹介されています。 個人邸宅、教会、墓地、学校、工業施設──その多くは観光ガイドには載っていない、都市の“裏側”にある建築です。

ブルータリズム建築にあるコンクリートの荒々しい表現の中にはイタリア人のコンクリートに対する美の意識が見えてきます。

また、見た人に新たなインスピレーションを与えることは間違いないでしょう。


グラフィック社「イタリアのブルータリズム建築 無骨ながらも美しいコンクリートデザイン」


港湾労働者の家 


この本のタイトル写真にもなっている港湾労働者の家(Casa del Portuale)について少しだけ紹介します。

この建物は1980年にイタリアの建築家であるアルド・ロリス・ロッジによって設計され工業分野の合理主義設計を否定するようなデザインになっています。

ビル本体はオフィスと住宅を一体化した10階建てのものとなっておりポルトガル労働組合の依頼によって建設されました。

非常に有機的でブルータリズムを感じられるデザインとなっており、イタリアブルータリズム建築の傑作と言われています。

宇宙船にも見えるデザインとは裏腹に内部では労働者で活気が溢れる建物だったそうです。

現在は一階が廃墟となっていますが上層部のオフィスや住宅は今現在でも使われているとのことです。

 

読後の感想 


この本を読み終えたとき、きっとあなたの中で「美しさ」の定義が少し変わっているでしょう。 整ったものだけが美しいのではない。 無骨で、荒々しくて、でも確かに“そこにある”ものの存在感──それこそが、ブルータリズムの魅力なのです。

建築好きはもちろん、写真や美術に興味がある人にもおすすめの一冊。 気になった方は、ぜひ手に取ってみてください。


書籍情報

編集・写真:ロベルト・コンテ、ステファノ・ペレゴ
翻訳:石田亜矢子
総頁数:200ページ
ISBN:978-4-7661-3895-5
定価:2,750円(税込)
発売日:2024年7月
版元:グラフィック社



「脱構築主義(deconstructivism)」という言葉を聞くと、何やら難しそうな印象を受けるかもしれません。けれども、その根っこにある考え方は意外とシンプルです。

それは、「当たり前」や「正しさ」とされてきたものを一度壊してみることで、新しい見方や表現を見出そうとする姿勢です。



脱構築主義の起源


この考え方はもともと哲学の世界で生まれました。

20世紀後半、フランスの哲学者ジャック・デリダが提唱した「脱構築(deconstruction)」は、言葉や思想、文化の中に隠れている前提や権力構造を問い直すものでした。

たとえば、「男性/女性」「理性/感情」「中心/周縁」といった対立構造は、どちらかが優位に置かれてきました。

この状況をデリダは、そうした二項対立の枠組み自体を疑い、その内側で意味がどう揺らぎ、入れ替わりうるのかを考えました。

つまり、「真実はひとつ」ではなく、「意味は常にずれていく」——それが脱構築の核心です。



脱構築主義の建築的応用


では、この哲学的な考え方がどうして建築にまで広がったのでしょうか。

1980年代、ポストモダンの流れの中で、多くの建築家たちは「モダニズム建築」への反発を感じていました。

ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエに代表されるモダニズムは、「機能的で合理的」「無駄を省いた美」という機能主義や合理主義を掲げていましたが、次第にその均質さや冷たさが批判されるようになります。

そこに現れたのが「脱構築主義建築」です。

この潮流を象徴するのが、カナダの建築家フランク・ゲーリーです。

彼の代表作「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(1997年)は、金属の外壁がねじれ、波打ち、まるで動いているかのような形をしています。

それまでの「整った建築」のイメージを完全に裏切り、構造や形態そのものを「解体」して再構成する試みでした。




また、イラク出身の建築家ザハ・ハディドも、脱構築的なデザインで知られています。

彼女の作品には直線がほとんどなく、流動的で有機的な空間が特徴です。まるで建物そのものが地形や力学の一部として生きているように感じられます




1988年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された展覧会「Deconstructivist Architecture」は、この新しい建築潮流を公式に位置づけた出来事でした。

参加した建築家には、ゲーリーやハディドのほか、ピーター・アイゼンマン、ダニエル・リベスキンド、レム・コールハースらが名を連ねています。

彼らはいずれも、形や構造の「不安定さ」「分裂」「ねじれ」を意図的に表現することで、建築を一種の「批評行為」として提示しました。

ここで重要なのは、脱構築主義が単なる「奇抜な形」を目指しているわけではないということです。

むしろ、「建築とは何か」「空間はどのように意味を生み出すのか」という根源的な問いへの挑戦なのです。

たとえば、ゲーリーの住宅や美術館は、住む人・訪れる人に「ここはどこまでが壁で、どこからが外なのか」「この形は何を意味しているのか」といった感覚的な問いを投げかけます。

また、ダニエル・リベスキンドは建築様式そのものが記憶、歴史、意味を語る建築を試みました。建築という無機物に意味を持たせようとする従来の概念を破壊して真実を見出そうとする脱構築主義の代表的な例です。



それは、デリダが言語の中で行った「意味のずらし」を、建築という物質的世界で実践した試みだともいえるでしょう。

物質的空間に長年とどまり続けた建築が3次元空間を脱出し視覚的にしか語られなかった建築の本質が次のステージへあがった証拠とも言えます。




脱構築主義がもたらした理想


今日、脱構築主義の流れはやや落ち着きを見せていますが、その精神は現代建築の中に確実に生き続けています。

3DモデリングやAI設計が進化する中で、建築は再び「固定された形」から解放され、流動的で予測不能な姿を取り戻しつつあります。

また、都市や文化そのものを「再構築」する視点としても、脱構築の思想は今なお受け継がれていると思います。



つまり、脱構築主義とは「壊すための破壊」ではなく、「問い直すための破壊」です。

当たり前と思っていた構造を壊し、その中から新しい意味や美しさを見出す。

この考え方は空間の捉え方や、地域コミュニティの発見など建築をさらに進化させたきっかけともなる重要なものなのです。






南青山・スパイラルで開催中の「槇文彦 スパイラル ― アートの生きる場所」展(2025年10月1日〜13日)を訪れました!



この展覧会は、建築家・槇文彦が設計したスパイラルの完成から40年、そして彼が率いる槇総合計画事務所の創立60年を記念して企画されたものです。


スパイラルとは


1985年に竣工したスパイラルは、アート・デザイン・日常生活が交差する複合文化施設として誕生しました。

槇文彦のポストモダニズムを象徴する代表作であり、外苑前交差点に佇むその姿は、今もなお東京の現代建築を語る上で欠かせない存在です。




展示の見どころ

展示会場では、スパイラルの建築模型や設計図、そして当時のコンセプト資料などが紹介されています。

下の写真は、実際に展示されているスパイラルの建築模型です。







ここまで細かく作った後に実際の建築物を作るのは時代を感じますね。細部まで精密に再現された模型からは、建築家の空間構成へのこだわりと、アートが息づく場としての豊かな想像力が伝わってきます。





展示の中にはアクソメ図やアイソメ図などここでしかみられないものもたくさんありました!



建物の中を眺めると、吹き抜けのアトリウムや螺旋スロープ、光の入り方までが巧みに設計されていることに気づかされます。これは、槇文彦の空間の動線を意識した設計になります。当時、この辺りのエリアでは今のようなファザードの強いビルは少なかったのですがワコールの塚本さんの依頼で当時としては珍しいアートと建物が融合するようなビルを作ることになりこのような形になった経緯があります。特徴的なスロープがあることでそこにいる誰もがスロープを上りその先に行こうとすることをデザインしたということです。



スパイラルの「建築としての美しさ」と「人を包み込む優しさ」、その両方を感じ取ることができる展示です♪



[建築紹介]大阪関西万博 チェコパビリオン


今回も大阪万博のパビリオンを紹介していきます。
万博は新しい建築の展覧会としても有名ですが、今回は施工難易度MAXのチェコパビリオンについて紹介します!
(パビリオン紹介までとても長いので早く見たい方は目次からチェコパビリオンまで飛んでください(~_~;))


チェコってどんな国?

皆さんはチェコという国をご存知ですか?
もちろんこのブログにアクセスしているということは知っていると思いますが、チェコは人口1000万人ほどの中央ヨーロッパに位置する国です。
面積は日本の約5分の1ほどで穏やかな気候でとても過ごしやすいです。
私も10年ほど前一度だけ首都プラハに行きましたが、なかなか過ごしやすい上にとても素晴らしい建築が数多くあり、めちゃめちゃ観光しがいがあります!
一応このブログは建築紹介がメインなのでざっとチェコの有名な建築を紹介しておきます。


プラハ市街

聖ヴィート大聖堂

聖ヴィート大聖堂


上の写真は聖ヴィート大聖堂と呼ばれる聖堂です。この大聖堂は14世紀の中頃に建設され幾たびの改築、増築を経て1929年に竣工するという建設に600年もかかっている教会です(プラハのサクラダファミリア?)。実は、中世の時代に作られはじめ19世紀に完成するという建物は実はヨーロッパでは意外に多いです。建築史を専攻してる方や教会建築が好きな人ならわかると思いますが、18世紀から19世紀にかけてリヴァイヴァル建築と呼ばれる過去の様式に建築の答えがあるという考え方をもとにした建築が流行しました。こちらの教会も14世紀あたりに一部建設された後、18世紀あたりまで作りっぱなしの状態でしたがヨゼフ・クランナー率いるドイツ人建築家たちの設計のもと完成されました。ここで押さえておきたいのは、このようなリヴァイヴァル建築はもとの建築様式を忠実には再現していないどころか、最初の設計案よりもより大きく装飾も派手にしているものが多いということです(そもそも、当時の設計図があまり残ってない)。これらの建築はネオ・ゴシックとも呼ばれゴシック様式の特徴である尖塔アーチ、フライングパットレス、リブ・ヴォールトなどを残しつつ近代の施工技術を用いているため巨大な建造物が多い印象です。


内部の写真(天井と左右の廊下にヴォールトがある)


この大聖堂は建設当時のものとうまく統一感を持たせておりぱっと見では近代に作られたものとはわかりません。よく見るとネオ・ゴシックの装飾があるらしいのですが私にはわかりません🙇‍♂️

ちなみに、この聖堂の半分がネオ・ゴシック様式だそうです。(ほとんど近代!)


ダンシング・ハウス

チェコの建築でもう一つ外せないものといえばダンシングハウスです。名前だけ聞くと「?」という感じになりますが実際に見ればその意味がわかります笑


ダンシングハウス外観


建物全体がダンスしているようにも見えるこの建物はフランク・ゲーリーとチェコ人建築家のウラド・ヴィルニッチによって設計されたナショナルネーデルランデンビルです。この、圧倒的な外観はフランク・ゲーリーの代名詞とも言える脱構築主義(これも、いつか記事にします!)によってできています。

この建物はもともと1945年に起きたプラハ爆撃で一部破壊された場所に建てられたもので、99枚のコンクリートパネルによって構成されている上、プラハの景観を損なわないように窓の位置を隣接する建物と揃えて作られています。この工夫によって真ん中のガラス部分がより目立ちつつ、周囲との違和感がないようにになっているんですね(さすがフランクゲーリー!)。


夜のダンシングハウス


建物自体もとても湾曲していますが内部もめちゃくちゃ非対称にできていて各階の平面が異なる特徴を持っておりバー、レストラン、ギャラリー、ホテルが入っているそうです!

また、これ以外にもDOX現代美術センターなどチェコには見ときたい建築が数多くあり、ぜひヨーロッパに立ち寄る際には訪れてみてください!


大阪関西万博 チェコパビリオン

お待たせしました_| ̄|○

今度こそ紹介させていただく大阪関西万博チェコパビリオンです!



このパビリオンの何よりの特徴は、全てCLT(集積材)でできている上、ボヘミアンガラスと呼ばれるチェコ伝統のガラスが一面に貼られているということです!

CLTとはクロス・ラミネート・ティンバーの略で、合板とは違い板材を交互に90度回転させて積層させる近年にヨーロッパで開発された新しい集積材です。普通の木材に比べて難燃性が高く、耐震性も高いのでヨーロッパなどでは住宅などに多用さているそうです。日本では値段の問題で一般的にはあまり普及しておらず、国内で採れる木もあまりCLTに向いていないうえ、設計者がそもそも使い方がわからないという問題があるので国内では非常に珍しいとされています。


内部の様子


こんな感じで国内での施工実績があまりないので、チェコの建設会社と連携して建設したそうです。

ボヘミアンガラスに関してはチェコから直接運んできたらしく一般的なガラスとは違い、扱い方が全く違う上CLTに施工しなくてはならないという三重苦の状態です😭

ここで一度図面を見てみましょう。







平面図


このように丸型から楕円型に変形している作りになります。

さらに、外側部分はスパイラル状の階段になっており廊下を進むにつれて上の階へ上がっていくという構造です。



正直初めて訪れた時には本当にCLTだけでできているの?って思っていましたが、実際に見てみると「ガチか」という感じで万博の中でトップレベルの建築だということを身を持って体感しました。

万博も残りもう少ないですが、是非訪れてみてはいかがでしょうか。






 

今回も大阪万博にあるパビリオン紹介です!

大阪万博に私は4回ほど行ったのですが、当日登録でなんとか入れた坂茂さん設計のブルーオーシャンドームについて解説していきます。


 

 坂茂さんってどんな人?

 
ここで、坂茂さんをちょっとご紹介します。坂茂さんは日本を代表する建築家であり、建築界のノーベル賞とも呼ばれるプリツカー賞や高松宮殿下世界文化賞建築部門など多数の賞を受賞されているスゴい方です。特に、環境工学、材料に強い建築家でもあり、過去には紙管などを用いて教会や集会所を作るなど個人建築から災害支援まで幅広い活動を行っている方です。(ここら辺の説明はまた詳しく記事にします!)
材料の使い方がとても上手いというのが坂さんの建築の特徴で、木材からRC、鉄骨、果ては紙など材料を深く理解しているからこそできる建築が多い印象です。
私の個人的な感覚としては隈研吾よりも木材の使い方が上手いと思います...
 
例えば、静岡県にある富士山世界遺産センターは写真のように池に映ると富士山になる逆さ富士の逆バージョン(つまり、逆さ逆さ富士?)を設計したりしています。正面の富士山の山の尾根に当たる部分は全て木材でできているそうです。信じられますか???(語彙力不足)
 

 

他にもフランスの美術館やニュージーランドの教会など素材を全面的に生かした素晴らしい設計の建築物が多いです。

 

 

クライストチャーチ大聖堂

実はこの教会紙でできているんです!!

直径600mmの紙管を躯体として仮設建造物として建てられたそうです。

また、坂さんは紙など素材を使った災害支援などの活動をしたりしています。特に避難する際のプライバシー確保のための仕切りであったり紙でできた仮設住宅など幅広い設計をしています。

私自身の個人的なお気に入りの坂建築は銀座にあるニコラス・G・ハイエックセンターというビルです!

 

 

この建物は7つの特徴的なエレベーターが独立してテナントの時計屋にはいるとても珍しいものです。ほんとによくわからないエレベーターがあって、エレベーターが昇るまでそれがエレベーターだと気づかないくらい珍しいです。(複雑なつくりのせいでエレベーターが傾いたこともあったり…)

私もこのビルの中にあるスウォッチに行ったことがあるのですが、エレベーターが珍しすぎて時計を買った記憶がありません笑

ちなみにこの建物は日本建築学会賞を受賞しています。

 

 ブルーオーシャンドーム

 

 

さて、万博の方に話を戻しましょう。
ブルーオーシャンドームはその名の通りドーム型の建物になります。この建物のなりよりの特徴は3つの異なる素材でできたドームが連結されているものだということです。

 

 

これらのドームはそれぞれ紙管、カーボンファイバー(正確には炭素繊維をプラスチックで強化したCFRPというもの)、竹の3つの素材で構成されています。

このパビリオン自体が「海からの蘇生」というテーマで作られておりできるだけ環境にやさしくかつリサイクルできる建物を目指して作られているので自然素材を使ったこのような形になったかと思います。それぞれのドームにコンセプトがあり「循環」「海洋」「叡智」という形で海のプラスチック汚染について展示するものになっています。

 

 

中に入ってみると豊島美術館にあるのと似たような水滴を使った芸術作品が!

もちろん私は建築に興味があるのでスルー。しかし、訪れる人がみんな見入っているのみてつい私も見入ってしまいました笑

 

 

最初のドームには竹の素材が使われています。竹は伸縮性が高く、すぐ生えるのでコストが安く済む素材ですがドームのような巨大な構造物になるとどうしても強度が足りないという問題が出てきます。その問題を補うために屋根の構造材には竹の集成材を使っているそうです。集成材にすることで強度を担保した上で屋根の部分にはETFEのようなとても軽い膜のようなものを使うことでドーム全体の自重を軽減していることがわかります。

仮設建築だからこそできる建築ですね!

 

 

 

お隣のドームにスタッフに案内されて入ってみるとそこには巨大な球体が…

どうやら巨大なディスプレイのようなものでここでは海のプラスチック汚染について映像で解説してくれました。

 

 

 

この、ドームは先ほど言った通りカーボンファイバーが構成材となっているドームです。ブルーオーシャンドームの中で1番巨大なドームなのでとてもゴツゴツとした構造なのかなと思いきや意外に軽そう。

実際カーボンファイバー(CFRP)は将来的には鉄骨に変わるかもしれない素材として注目されていて、鉄の2倍強度が強く、2倍軽いと言われています。すでにf1のレーシングカーや航空機の胴体、楽器や釣竿にまで使われている万能素材です。

とにかく軽くて強度が高いのでこういった巨大な構造物にはうってつけの素材です。しかし、鉄骨などと比べてコストが高いのでそこさえ解決すればもっと日常的に建築使われると思います。

ちなみにこれらも3つのドームには仮設鉄骨基礎と呼ばれる解体しやすい基礎が使われています。鉄骨もリサイクルできるので実質このドームは全てリサイクルできる建物ということになりますね!

 

 

最後に3つ目のドームへ。

これは坂建築の定番である紙管が使われています。屋根面をよく見てみると六角形の構造が連なっているのがみえます。

これは、ハニカムビームと呼ばれるものでカーボンナノチューブと同じ構造であるとても強度が強くなるものです。ハニカムビームは数学的にもとても理想的な構造ともいわれており、自然界でもいくつかの場所で見ることができます。(蜂の巣とか)





 ブルーオーシャンドームに行った感想としては建築に携わる者なら行く価値がめちゃめちゃあると思います。坂茂の定番とも呼べる紙管での建築が見れる場所はなかなか少ないうえ、万博閉幕後はモルディブに移築されるらしいので、まだ万博に行く予定があるよ!という人は訪れてみてはいかがでしょうか。


 幻の万博パビリオン

これまで紹介したのは大阪関西万博の坂茂さんが設計したパビリオンでしたが、実は今から25年前の2000年にも坂さんが設計したパビリオンがあったのをご存知でしょうか?


これは、2000年にドイツのハノーヴァー万博の際に坂さんは日本館を設計しています。

こちらの建築も紙管を構造体とした建築になっておりドームではなくアーチ状のパビリオンとなっています。現在は解体されて現存していませんが、坂茂建築の歴史が垣間見れるような建築に私も実物を見たかったないう気持ちになります😭


 終わりに

ブルーオーシャンドームは完全予約制ですので事前に予約するか当日登録で入場する以外入る方法がありません(´ω`)
しかし、他の人気パビリオンに比べて当日登録がしやすいものとなっていますのでぜひチャレンジしてみてはどうでしょうか。
もし、予約を取れなくても大屋根リング(またいつか記事にします!)の上からドームの全景が見れるので時間があるときに上から見るのもおすすめです!
では、また次の記事でお会いしましょう♪