去年の夏、私は念願の一人暮らしを始めた。
都内の古いけど味のあるアパートで、間取りは1K。
駅からも近く、築年数の割に家賃が安かったのが決め手だった。
引っ越して3日目の夜、大学時代の友人・Hが「引っ越し祝いを持ってきたよ」と遊びに来てくれた。
久しぶりに会ったHは、相変わらず人懐っこい笑顔で、ケーキとジュースを買ってきてくれた。
部屋にはまだダンボールが積まれていたけれど、なんとか床に座るスペースだけは確保していた。
二人で甘いものを食べながら、学生時代の思い出話に花を咲かせた。
Hはずっと楽しそうに笑っていたが、ふと真顔になってこう言った。
「なあ、この部屋……変なこと起きてない?」
私は笑って、「やめてよ、引っ越したばかりなのに怖がらせないで」と返した。
Hは「冗談冗談」と誤魔化していたが、どこか様子がおかしかった。
やがて夜も遅くなり、Hは「そろそろ帰るよ」と言って部屋を出ていった。
私は玄関まで見送ったあと、すぐにシャワーを浴びて寝る準備をした。
布団に入ってからも、Hの言葉が頭に引っかかっていた。
「変なこと起きてない?」
確かに、昨日の夜中、天井から「トン、トン」と音がして目が覚めたことがあった。
でも、築年数の古いアパートだし、木が軋んだだけだと思っていた。
深く考えるのはやめて、そのまま眠りについた。
翌朝、スマホを見ると、HからのLINEが来ていた。
「昨日行けなくてごめん! また改めて引っ越し祝い持ってくね!」
……え?
私はスマホを何度も確認した。
確かに、昨日、Hは部屋に来た。ケーキを食べて、ジュースを飲んで、昔話をして、玄関から帰っていった。
でも――あのHは、誰だったの?
冷蔵庫を開けると、食べかけのケーキが1つ。ジュースも半分残っている。
でも、どこにもその「H」が持ってきたという証拠はない。
私は急いでHに電話した。
「昨日、本当に来てないの?」と聞くと、Hは戸惑いながらも断言した。
「行ってないよ。というか、最近ちょっと体調崩してて、家から出てないし……」
心臓がドクドク鳴った。
あのとき私が会っていたのは、本当に「H」だったのか。あの笑顔も、声も、話し方も、Hそのものだった。でも、それが「Hではなかった」としたら――。
あの人は、誰だったのか。
そして、なぜ「この部屋、変なこと起きてない?」なんて聞いてきたのか。
あの日から、夜中になると決まって天井から音がする。「トン、トン」。今では、その音に慣れてしまった自分が一番怖い。