前回の続きです。


●川に浮かぶ島?海に浮かぶ島?

江島氏開祖、江島太郎、次郎による筑後侵攻の「江島合戦」は、軍船による水上戦闘や、湿地帯での陸上戦闘が繰り返され、かなり熾烈な戦闘が伴ったと想像出来ます。

私見ですが、高木氏が源氏に味方し、源平最後の戦いが行われた1185年頃に江島占領が完了し。高木氏が鎌倉御家人となった1186年以降の、政局が安定した時期に、入植、干拓、村作りが行われたのではないかと考えています。

水に浮かぶ葭(よし)が生い茂るだけの小島を、時間と手間をかけ、多くの犠牲を払ってでも、何故、高木氏は江島が欲しかったのでしょうか。

その最大の理由は「江島」という名前に隠されているのです。

地名というものはその場所の地形や特徴を直接的に表したものが大半です。
江島の周囲の地名を見てみると、青木は木が青々と茂っている所。江上は入り江の一番奥まった所という意味でしょう。

では江島はどうでしょうか。川に浮かぶ島。川の中の島?
現在の江島から想像すればその通りですが・・・

揚子江など支那文化圏では川表す漢字に江を用いますが、日本では海又は大きな湖を表す漢字として用いられてきたようです。

江島は川に浮かぶ島ではなく、海に浮かぶ島、あるいは海の中の島という意味ではなかったかと私は考えています。

全国に江島という地名は多々ありますが、まずは神奈川の江島(えのしま)、鈴鹿の江島、宇佐の江島、長崎の江島(えのしま)といずれも海の中にあるか、今は陸地であっても当初は海に面していた場所です。


次に江島の対岸の地名を思い出してみてください。そう「神埼」です。「埼」は「みさき」と読みます。みさきとは海や湖に突き出た地形の事を言います。

さらに平清盛の父、平忠盛が神埼庄にあった上皇家の荘園の代官となった時、神埼の港に宋の大船を入れて海外貿易を行っていたという記録があります。

江島から北に約10kmの場所にある吉野ケ里遺跡からはたくさんの貝塚が発見されました。吉野ケ里が繁栄した弥生時代には、集落の傍まで有明海が広がっていたという証です。

筑後川が運ぶ土砂によって、現在でも有明海では1年に10mづつ陸が沖へと延びているそうです。筑後川が作り出す沖積平野は想像以上に早いスピードで、その姿を変化させているのです。

結論を先に述べましょう。
今からおよそ800年前の頃は、神埼、江島の辺りまで有明海が深く入り込んでおり、「江島」は筑後側の河口の突端に位置していたのではないでしょうか。


続きは次回に


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