
●江島・四郎丸の文献への初出と藤原姓肥前高木氏
江島邑(村)の文献への初出は意外に古く、承久三年(1211)9月28日付の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉五)にみられます。また永仁四年(1296)(御船文書/鎌倉二五)には江島村と共に四郎丸村の記述も初出します。
(鎌倉幕府の成立は頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされてきたが、最近は1185年とされている。鎌倉幕府成立年は諸説多々あって確定しているわけではない。ちなみに1185年は平氏が壇ノ浦の戦いで滅んだ年)
高木氏庶流の一家(プレ江島氏)が筑後川の湿地を開き、田畑の開墾を行って村人の定住をはかり、村として認知されるようになるには最低10年以上はかかったと思われます。いずれにせよ12世紀末から13世紀初頭には江島村が開かれて江島氏が誕生し、続いて四郎丸村を開発して13世紀後半には両村の支配が完了していたようです。
大宰府の在地官人であった高木氏の前身(藤原姓)が大宰府から肥前高木村に移住して来た年代は特定されていません。文献によると、平家滅亡の翌年の1186年に、源頼朝より佐嘉郡深溝北郷内甘南備の本領を安堵され、地頭職に補任されています。
このことから平安末期迄には肥前高木氏の肥前移住は完了していたことになります。
高木氏の勢力拡大は積極的に行われ、その活動は四方に広がっていきます。肥前では竜造寺氏(肥前国小津郡東郷内龍造寺村)、於保氏(肥前国佐賀郡於保村)、筑後では北野氏(現:久留米市北野町)、赤司氏(久留米市北野町赤司)、草野氏(久留米市草野町)、上妻氏(現:八女市)など。遠くは日向の花木高木氏(現:宮崎県都城市山之口町花木)など庶流が各地に進出し、その勢力を拡大していきます。
鎌倉幕府の御家人となって、平氏勢力の追捕という大儀名分を得た高木氏が、勢力拡大に拍車をかけた事は容易に想像できますが、それ以前からもすでに進出は始まっていたように思われます。高木氏については下記の参考資料「佐賀市 高木氏」を参照してください。
●グーグルマップとストリートビューで見る
さて、ここでグーグルマップを開いてみてください。検索欄に「久留米市城島町江島」と入力して江島の地図を出します。赤線で囲まれた範囲を旧江島村とお考え下さい。
続いて字名を四郎丸と変えて入力してください。同様に旧四郎丸村の範囲が分かります。この二か所が江島氏の本貫です。
四郎丸村を本貫とする根拠は別の機会に述べます。ストリートビューを使用すれば現在の江島、四郎丸の様子も見ることが出来ます。
次に地図をぐっと拡大してみます。江島から西に直線で約9kmの地点に高木氏の本拠地、高木城址(佐賀市高木瀬)があります。
もう一度江島に戻ります。筑後川をはさんで対岸は佐賀県神埼市です。ここは神埼荘と呼ばれ、古代から多くの荘園があった地域です。神埼市は南北に長い市ですが、その北が吉野ケ里遺跡で有名な吉野ケ里町です。江島からは吉野ケ里まで直線で約10kmです。
地図をさらに拡大すると太宰府市が見えてきます。さらに拡大して博多湾が画面に入るまで拡大します。博多、大宰府、高木瀬、江島の位置関係と距離感がお分かり頂けると思います。この4か所はいずれも江島氏と関係のある場所です。
次は地図を縮小して、久留米市を中心にして北野、赤司、草野氏の本貫地を見てみます。久留米市街の外側を取り囲むような配置です。
次に上妻氏の本拠の八女市の位置を確認してください。
この位置関係から高木氏の筑後方面への進出戦略が読み取れます。この4地点を結ぶ円弧の中の地域は早くから開け、はるか昔より古代氏族の末裔や有力氏族の治める地域となっていました。また良田に恵まれ、荘園化がいち早く進んだ地域でもあります。
「切り取り強盗は武士の習い」と言いますが、そのような土地を侵略することは容易ではありません。既存勢力の支配が弱い地域からその支配下に治めていったと考えられます。
とは言え、よくよくもう一度見返すと。北野氏は筑前の大宰府、博多方面への街道を。草野氏は日田から豊後へと続く街道を。上妻氏は小國から肥後へと続く街道を抑えるには最適の位置にありませんか。後に高木党と呼ばれる同族の配置は、単なる偶然の結果ではなく、相当な深謀遠慮があったのではないかと思えるのです。
続きは次回に
参考:佐賀県史 高木氏
PDF7枚目 P325 武士の発生
https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130124123018.pdf
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