【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「精神現象学」ヘーゲル
・「精神的なものだけが現実的なものだ」という有名なことばから、自己意識、理性、精神、宗教を見渡して「絶対知」に到達するヘーゲル哲学は、観念哲学ともよばれ、のちの実存主義者たちに批判的な影響をあたえた。ヘーゲルの思想体系は、今日でも大きな意味をもっている。
・(概要)ヘーゲルはこの大著を「いま・ここ」というだけの観念的素材で、観念の世界を「絶対知」まで壮大に旅をする。知の生成過程をのべたの本著である。
・精神的なものだけが、現実的である
- 真理とは全体のこと。⇒全体とは、本質が発展して完成されたものである。
- 本質から出発して、結果として出てくるものが真理である。
- 「すべての動物」といったとき、このことばがあわらわしているのは、直接的に、いま、現実的に頭に浮かんだこと。⇒しかし、頭に浮かんだことは、いったん外に出てまた還ってきたもの。⇒つまり、動物とは何かと思考する。このとき、理性によって考える。⇒この理性によってとらえられて、頭に浮かんだことが、現実のものである。⇒理性的なものは現実的であり、精神的なものだけが、現実である。
・考えつづける心-感覚的確信と知覚
- まっさきに目に飛び込んでくる知は、直接の知で、そのまま受けとる以外にはない。⇒「りんごが赤い」という認識は、もっとも感覚的確信(=だって、みているんだもん!)。これは日常生活で起きているあいだ、毎秒毎秒経験していること。⇒このことは掛値なしの、ゆたかな認識。
- 「りんごは赤い」は「ある」ことであり、感覚的な知にとっては、純粋に、単純に、直接本質を示している、という。⇒りんごは「いま、ここ」で赤い、丸い、重さがある…、それだけだが、このことはゆるぎない事実。
- 赤いりんごは、目を向けているときには確かにある。しかし、いったん目をそらすと、赤いりんごはたちまち消えてしまい、となりの黄色いバナナが目に飛び込んでくる。⇒「ある」は「いま」と「ここ」を含んでいる。⇒「ここ」がなくなり、りんごをなきものにし、「いま」バナナをうみだす。=目は、ちょうどレンズのように、目に映るものをとらえ、レンズのなかに映らなくなると、消えてしまう。
- 時間も同じこと。昼はやがて夜となる。夜は朝となり、昼となってゆく。⇒このとき、りんごもバナナも、昼も夜も、「ある」のなかに、すぐにもなくなるという「否定」を含んで存在している。
- 第一は、いま、ここにりんごがある、と認めること(肯定)。⇒第二は、目をめぐらせるとりんごが消えて、りんごは過去のものとなる(否定)⇒第三は、りんごも昼も、いまはないけど、りんごも昼も「あるもの」としての確信はのこる。還ってくる。このとき、第一の段階にもどる(綜合)。=この綜合を「アウフヘーベン(=止揚する)」という。⇒この三つの段階の運動が、有名な「弁証法」。
- この三段階にあらわれるりんごは、単一の集合体としてのりんご。⇒この単一体は現実的な、理性的なものの本質であり、真理である。⇒直接にここにあるものを知ることから「知覚」という段階に入ってゆく。この知覚は、自分に対してあるものをとらえること。⇒自我にたいして第一段階のものは知覚であり、第三段階の単一の集合体は一般的なものであり、「対象」となる。=我々が本質というとき、第三段階の対象となった「単一体」をさしている。
- 知覚の真理は、まとめるとつぎのようになる。
- それぞれの性質が互いに無関係に「も」という形で重ね合わせれる場面。(塩は、白く「も」あり、辛く「も」あり、重く「も」あるもので、性格はこの「も」の連続。)
- それ以外の性質を排除する場面。(白い塩は、赤や緑などほかの色を排除している。)
・わたしに還る-自己確信の真理
- 知ろうとする知の運動を「概念」という。⇒概念でとらえられたものを「対象」と名づける。
- 欲望が自己意識となり、自己意識そのものが対象になったとき、自己意識は対象であると同時に「自我」でもある。⇒こうしてここに、二つの自己意識があることになる。⇒この二つの自己意識の関係は、生死をめぐる闘争によって自他の存在の実証するもの、と定義する。⇒それは、自分が自立した存在である確信を、そして自由を確証するための闘争である。
- この二つの意識は、相手を死に追いやるしか、相手をもはや自分以上に価値あるものではないところまで追いやるしかない。⇒自己意識の自立存在のためには、否定力をもつ相手を否定してしまうしかない。
- 二つの自己意識は主人と奴隷という隷属関係にあり、たたかいの相手を否定する力をもった存在。⇒また両者は、統一されないまま、並列している。⇒我々は、自分のなかの欲望とたたかうことが日常。⇒欲望にはさまざまなことが含まれている。「心の葛藤」という構図は、このように統一されないまま、並列しているところにある。⇒意識はこの二つの自己思考をまとめることはできない。
- りんごがたべたいという単純な悩みから、彼女・彼氏とうまくやりたいという欲望、少々不道徳なことをしても金儲けしたいという生臭い欲望、などの葛藤がある。⇒この葛藤は、二つの自己意識の生死を賭けたたたかいの関係にある。⇒このような自己充足のたたかいの解決には、理性のはたらきが必要になってくる。⇒このとき理性は、彼岸(=この世のものではない)からやってきて、個の意識でありながら、すべてのものに絶対知に即応しているもの。