【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
・哲学の原点はギリシャ語のフィロソフィーといわれている。⇒それは「フィロス=愛する」「ソフィー=知恵」つまり「知恵を愛する」ことを意味している。⇒知恵を愛する人はだれでも哲学していることになる。⇒では、知恵を愛するとは何か、それは思索すること。⇒問題としていることがらの真実を求め、思索し、省察することは、哲学することになる。=思索するときは、だれでも哲学している。
・しかしながら、この場合の思索とは、勝手に何かを頭の中に連想し、作り出すことではない。⇒まず、その思索はものごとの真実の姿をみてとる活動であること。⇒さらに、それが多くの人と共有できるものでなければならない。⇒そして、何よりも、人間がこの世に生きてあることの意味のさまざまな関連を、さぐろうとするものでなければならない。⇒そのためには、先人たちの思索の経過を学ぶことが大切。
・しかし、先人のことばを記憶するだけであったならば、それだけでは哲学することにはならない。⇒つまり、自分の観察から生まれた生き方、価値観と思索とをつねに結びつける必要がある。⇒そこには実践が伴うこともある。⇒実感実体なくしては、思索は空虚なものとなってしまう。⇒自分が必要とする先哲を選び、そのことばにふれ、そして思索するとき、人は自分のなかに、自分が生きている意味を問い、その価値観を深めることができる。⇒そしてこのような思索の要求は、強いレベルで、だれしもがもっている。
・プラトンは「驚きこそがなによりもすぐれて哲学的な感情(パトス)」といっている。⇒自然や生活のなかで驚くことは思索の原動力ということ。⇒また、驚きはなによりも自分の体験になり、そこから発する思索は、自分のことばとなる。
「ソクラテスの弁明」プラトン
・アテナイ(アテネ)市民のソクラテスは、「青年を腐敗せしめ、かつ国家の信ずる神を信ぜずして、他の神霊を信ずるがゆえに」裁判にかけられた。その時のソクラテスの弁明を、プラトンは師の教えを十分にふまえたうえで、詩的、哲学的言語でドラマチックにまとめた。
・(概要)ソクラテスは、この裁判には正当性がないこと、自分は理性の正しいと訴えるところのみを行ってきただけで、死を恐れることなどないと訴えた。傍聴席にいたプラトンは、師の訴える神霊(ダイモニオン)、国家、正義などの思想と偉大な人格をこの著に余すところなく表現している。
- 無知の知:自分の無知を自覚すること。ソクラテスの思想の起点。
- ソクラテスは、自分が最良と信じたものは、危険を冒しても固守すべきであり、それができない恥辱に較べると、死のごときは念頭に置いてはならないと言う。
- 死は人間にとって最上の福かどうかは誰も知ってはいない。⇒それなのに、人は死は最悪のものであることを知っているかのように恐れる。⇒これは最悪の無知つまり、自分が知らないことを知っていると信ずることではないか、と言う。
- 人間の最大幸福は、日毎、徳について語ることであり、魂の研究のない生活は、人間にとって生きがいのないものである。
- 完璧で、非物質的な形相(イデア)は、理性のみによってとらえられる事物の本質。価値あるものの理想的な形。⇒感覚によってとらえられるものは完全ではない。⇒それは形相(イデア)の模倣であり、不完全な実例からなる感覚的対象の世界とは別個に存在している世界とした。
- 想起説:人間の魂が肉体に宿る前に見ていたイデアを想起すること。⇒想起することにより、魂はイデアを認識することができる。⇒我々が日常生活で見、体験していることは、すべて仮象であり、イデアの世界にあるものを、そのつど想い起しているにすぎないという説。
- ソクラテスのロゴス=理性・理知への感動は、ロゴス中心主義の思想として発展していく。
- 知や理性を愛するとは、結局のところ、正しさ、美しさ、善なるものを求めること。⇒それらが、存在の本質的なものであり、その本質を追求するところに人間の本来の姿がある。
- イデアの追求は、また、イデアにとっては邪魔する存在の肉体や、邪悪なことが起きる現世の否定へと通じる。⇒我々は生きていれば、いろいろな欲望をもつ。⇒これらの欲望は、イデアの追求の鏡を曇らせるもの、邪悪な存在。⇒従って、知を求める人ほど、肉体的な快楽や欲望から離れ、魂を純粋な形で存在させるようにすることが大事である。
- 魂の、肉体からの解放と分離の状態は、死の状態。⇒知を求めること、イデアの追求は、まさしく、死の練習をしていることになる。⇒それだからこそ、知を求める人間は、死を恐れるべきはないということになる。