姜尚中「続・悩む力」を読んで⑦ | 昔のテレビ番組や日商簿記1級などの雑記

昔のテレビ番組や日商簿記1級などの雑記

昔のテレビ番組が大好きな、日商簿記1級浪人生の映像所有者の雑記です。

【書名】続・悩む力

【著者】姜尚中

【発行日】2012年6月20日
【出版社等】発行:集英社

 

【学んだ所】

人間は万能ではない。=限界がある。=運命。⇒生まれる国や場所、血筋。富裕な家庭に生まれるか、貧乏な家庭に生まれるか。容貌の美しさや、運動能力、頭のよさ。男に生れるか、女に生まれるか。交通事故に遭うこと、不治の病にかかること、寿命。多くの場合、運がいいとか、運が悪いというような言い方で語られる。⇒それらは、個人の微々たる力では対応できないから、ある意味で受け入れるしかないものもある。もちろん、それにくじけず、立ち向かっていく気構えは大切。「運命を切り拓くという言葉もあるように。

しかし、抗うべきことと受け入れるべきことを履き違えると、悲劇を呼び寄せることになりかねない。いまから800年前の鎌倉時代、鴨長明は、大火・戦乱・飢饉・地震などの災厄が相次いで死者と破壊に満ちた京の町を眺め、この世に永遠のものはないという無常の想いと、人間の力は自然の力には遠く及ばないという諦念を「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」ではじまる「方丈記」でつづったところが、われわれはその気持ちをいつからか忘れてしまった。⇒そして、「わが辞書に不可能という文字はない」的な勘違いをして、突っ走るようになった。人間の叡智によって自然はすべて制御可能であると考え、度を超えた開発を進めた。⇒そのあげくに東日本大震災と原発事故に見舞われた

自然は、人間の行きすぎたところに自動的にブレーキをかけようとしたのかもしれない。これに対して、人間が制御しなけれならないことがある。この世に存在するもののうちでも、社会の範疇に属するもの人が人為的に作ったもの、たとえば、会社や地位共同体、国家など、産業、制度、科学技術など。こういうものは人間が作りあげたのだから、それをよく知っているのは人間であり、責任をもって管理していかなければならない

ところが、おかしなことに、ここで我々はときどき二重の間違いをおかす。⇒「自然は制御可能だと思い、「社会は変えられないと考える。⇒傲岸怠慢の組みあわせとでもいうような、どこまでも自分たちに都合よくものを考えるようにできている。とはいえ、社会というものは、人間の必然的欲求に従ってそうとう堅固にできあがっているので、変えるのが難しいことは確か。⇒しかし、変えるのが難しいとしても、漫然と流されてはいけない。⇒漱石はかつて、怒涛の勢いで進んでいく近代文明に関して、人びとにこう訴えた。⇒「悪いからお止しなさいと云うのではない」「涙を呑んで上滑りに滑っていかなければならい」。⇒そのように、自覚的に対峙していかなければならない批判的に乗り越える

我々の社会の最大の特徴は、市場経済というものによって基礎づけられている。⇒この市場経済を、個人を超えた強制力をもつ避けようのないもの、未来永劫つきあっていかなければならない運命のような存在だと、何となく思い込んでいるが、人間の歴史のなかではたかだか400年の歴史しかもたない、新参者のシステム。⇒ということは、はじまりがあるから、終わりもあるといえる。しかし、いまではこのシステムが社会の隅々にまでスキなく入り込んでしまっているので、まるで歴史的必然であるかのように誤解されている。

そのような市場経済が何によって成り立っているかというと、人間、自然、貨幣の3つの要素。⇒市場において、この3つを交換、生産、あるいは消費することによって成り立っているシステムが、現在の資本主義社会この3つは、本来はどれも商品化できないもの。

人間

  • 別の言葉でいうと労働力のことだが、生きものだから、そもそもモノとして扱うのに無理がある。⇒能力がばらつきがあるし、休息も必要だし、病気もする。⇒しかし、いちおうの考え方として、資本家と契約を結んで労働力を提供し、その対価として賃金が支払われるという仕組みが作られた
  • 当初はゆとりのようなものが多少考慮されていた。労働はナマものだから、無駄も出るし、割増し料金的なものが必要になるときもある。しかし、時を経るほどに合理性と効率性がきびしく追及されるようになり、余計なものを極限まで削ぎ、コスト削減して、さらにこちらがダメならあっちでと、いくらでも代替がきくようなシステムを作りあげた
  • 人間を労働力として使うにしても、かつては、同時に個人の能力を開発するという思想があって、その考え方は少なくとも1970年代ぐらいまでは存在していた。しかし、それが次第に崩れ、やがて完全に貨幣でカウントされるものになっていた。⇒いまでは、労働力は世界中のどこの国の倉庫にも並んでいて、国境を越えて自在に調達できるといった考え方になっている。

自然

  • これも、本来商品化するのはおかしい。⇒最もわかりやすい例は土地で、有限であるそれを何度も切り売りして利益を得るなどは、明らかに奇妙
  • にもかかわらず、この地価資本主義をどんどん発展させ、その結果、バブル崩壊に見られるような手痛い挫折を経験することになり、いまもその後遺症に悩まされている
  • 自然を商品化することの弊害としては、石炭や石油といったエネルギー資源の問題もある。⇒ここを誤ると当然、生態系を破壊することになり、地球全体の危機を招く。⇒石炭を採りつくし、石油も採りつくしたら、次はどこから採ろう?という場当たり的な発想の果てに、我々は原子力に目をつけた

貨幣

  • いうまでもなく、それは生産活動の元手であり、また商品交換の媒介するツールであったのに、貨幣自体がマネーと呼ばれる金融商品として世界を駆けめぐることになったのは、1973年、第四次中東戦争で石油価格が暴騰し、世界の主な通貨が変動相場制に移ったとき以降といっていい。
  • それ以後、資本が自由化し、さまざまな株式投資やヘッジファンドと呼ばれるグローバルマネーのゲームが展開され、世界経済の動向はこれに大きく左右されるようになった。

我々の社会は、まさに隅々まで市場化している。社会イコール市場となった。あるいは、市場のなかに社会が完全に組み込まれた。⇒そのなかで、もともとは商品になりえなかったはずの3つのものの擬制的な商品化が極限まで進んだ。⇒そして、そのようなぎりぎり極限の資本主義システムのなかで原発が作られ、そこに東日本大震災が起こり、原発事故の惨事につながった

小さいものは美しい1973年に経済学者のE・F・シューマッハーが出版したスモール・イズ・ビューティー」⇒彼が主張していたのは、要するに、最低限の資源と中小規模の技術をもって、破綻のない持続可能な生産活動を行っていこうということ。当時は世界中が競って、「より速く、より強く、より大きく」の重厚長大を目指していたのに、彼は、いち早くその逆に行くべきだと主張した。

巨大なものを批判し、小さなものをいとおしんだという点で、漱石との共通点も感じる。⇒漱石の言葉のなかには、「大きさ」「強さ」「スピードといったものに対する懐疑のトーンが少なからずある

  • 漱石は明治30年代にイギリスに留学したとき、これは日本が手本にすべき国ではないと思った。⇒なぜなら、一等国といいながら、文明の汚濁に染まり、真っ黒な煤にまみれ、見るからに人間の心身を蝕んでいきそうな国だったから。
  • 夢十夜の第七夜の、男が夜の海に飛び込む話にも、同様な重厚長大へのアンチテーゼを感じる。その男は西洋人がたくさん乗っている巨大な客船に乗っているのだが、どこへ運ばれていくのか不安でたまらず、夜の海に飛び込む。⇒もっとも、この男は身投げしたのち、水面に落ちるまで永遠のような長さのなかで、やっぱり船に乗っている方がましだったかもしれないと後悔するが、ともあれ、巨大な得体のしれないものへの潜在的な恐怖が、この夢のベースになっている。
  • 親友だった正岡子規が生きていたころに作って送ったたくさんの俳句のなかにも、こんなに小さくて美しいものがあった。⇒「菫程な小さき人に生れたし

自分に関心がなくなれば、自動的に外の世界に対しても目が向かなくなり、結果的に、社会にも、政治にも、宗教的なものに対しても、全般的に無感動、無関心の状態が広がっていく。

フランクルは、人間というものは誰でも一回性唯一性のなかで生きていると述べている。

  • 一回性とは、その人の人生が一度しかないということ
  • 唯一性とは、その人がこの世にたった一人しかいないということ
  • だからこそ、どんな人生のどの誕生と死にも重大な意味がある
  • 人の人生は一度きりであり、ゆえに人はかけがえのないそんな当たり前のことが、ずいぶん長く忘れられてきた
  • だから、少しでもよく生きようと思うのならば、人間らしさの根本である、この一回性唯一性を取り返すことが重要。

過去を大事にする。=いまを大切に生きて、よい過去を作る。⇒普通、人生においていちばん重要なのは未来を考えることであり、過去を懐かしんだり過去にとらわれたりするのは後ろ向きだと考えがち。⇒そのため先の方へばかり目を向けてしまうが、人間にとって本当に尊いのは、実は未来ではなく過去。⇒過去の蓄積だけがその人の人生であり、これに対して未来というのはまだ何もなされていない、ゼロの状態。⇒はっきりとしているのは、過去は神によっても変えられないほど確実なものということ。極言すれば、私の人生とは、私の過去のことであり、吾輩は過去であるといってもいい。⇒だから、過去を大事にするということは、人を大事にすることにほかならず、逆に、可能性だとか、夢だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえる。

人間にとってさらに重要なのは唯一性

  • 誰にでも差し替え可能な、人が商品化された経済のシステムが社会全体を覆って、人の尊厳を著しく損ないつつあるといえる。こうした唯一性の喪失は、直接アクセス型社会の問題と無縁ではない
  • 接アクセス型社会というのは、不特定多数の個人が、原子のように互いにつながりのないバラバラな状態で、群衆(マス)の一人として生き、何らの媒介も必要とせずに、直接目標とつながる世界のこと。
  • このような社会がすでに現実のものとなっているが、ここではある意味で唯一無二ということは、実はあってはならない。⇒マスのなかではみなが同じでなければ、マスの均衡を乱すから。
  • そのような世界のなかに生きているので、自分がかけがえのない存在であるという自覚はなかなかもてないし、個人に対しても、その人がかけがえのない人だという感覚もなかなかもてない
  • その弊害は、東日本大震災に象徴的に現れた。⇒最たるものは、被災地を応援する言葉が、ほとんどがんばれ日本の一色だったこと。
  • そして、国民のほぼ全員がいっせいに自粛という名のもとに、騒いだり遊んだりするのを控えた。⇒この横並び感覚の言葉や態度は、まさに唯一無二の対極をいくマスの均質性を示している
  • 本当に大切なのは、そのような名もなく顔もない点々ではなく、一人ひとりの個性かけがえのない命をもち主張をもつ個人。=大切なのは、かけがえのない、代わりのいないあなた誰でもいいのではなくて、代わりのいないあなたそこに価値がある

もう一度本来的な存在のありようとは何なのかということを掘り下げて考え受け入れるべき、あるいは乗り越えるべき社会の姿を問い直していく必要がある。