政府の広報費が350億円規模に大きく膨らみそうだと前回記事で書いたが、それに加えて議員定数削減も強行されそうな状況になっている。政府広報費の大幅増額と議員定数削減は、国民・市民の多様な声を切り捨て、独裁政治への道を切り拓くという点で連関し合っている。当然、その先には憲法改悪がある。

 

 今回の議員定数削減でキャスティングボートを握ったのは玉木雄一郎率いる国民民主党である。維新の衆院比例45削減案に対して、国民民主が19削減案を出してきて、結局31削減で3党合意となったわけだが、45削減案より31削減案の方がマシだという、問題の本質から目を逸らした欺瞞的な対応は国民民主党という政党の性格をよく表している。これが彼・彼女らの言う「対決より解決」の実態である。野党として本来対決しなければならない問題でこうやって妥協・同調することで、権力側の悪政に加担していくのが国民民主党の本性なのである。こんな偽善的な決着を解決とは呼ばないだろう!比例の議員を削減するということがどんな重大な影響を及ぼすのかという本質部分には目もくれず、ひたすら政権にすり寄り、妥協や打算、偽善を積み重ねて自己の存在感をアピールすることだけを考えている。「対決より解決」という国民民主党の詭弁的な政治姿勢を認めれば、本来の問題解決からますます遠ざかるとともに、政治のオール与党化というか政党政治の形骸化が進み、大政翼賛会的状況が生まれてくるのではないか。

 

 こういう国民民主党を人々はどう見ているのだろうか。国民民主党の顔はもちろん玉木雄一郎である。前回も紹介した写真研究者の小林美香さんは、玉木を写した国民民主党のポスターについて下の記事(11/6)のように論評している。時間があったら読んでみてほしい。

 

 

 この記事で小林さんも書いているように、玉木のポスターが醸し出すのは何より「疾走感」「スピード感」「勢い」だろう。もちろん作り手(=国民民主党)もそれを表現しようと作ったに違いない。しかも、小林さんが撮影した場所では、その同じポスターが3枚連続で貼り出されていたという。そうなると、一層その動きのスピード感やダイナミックさが際立ってくる。そう言えば、私の自宅近くでも参政党のポスターが3枚並べて貼ってあった。インターネットのショート動画に慣れ親しんでいる人には、ああいう連続写真のような貼り方は効果的なのかもしれない。

 

 それから、私はやはり玉木の手の形が気になる。前回も指摘したことだが、指の間が空いている状態は男性的であり、何かを掌握・管理したいという男性的・支配者的な強い意志を感じさせる。

 

 当然のことながら、ポスターに書かれてある文字も、イメージを醸成するうえで重要なファクターである。上の記事のポスターには「この街の課題解決に 国民民主党」というキャッチフレーズが書かれている。小林さんは「課題解決のために臨機応変に対応し、ひたむきな姿勢で政治活動に取り組んでいるとアピールする」と、このポスターの全体感を評し、顔を大写しにして権威をアピールするポスターよりも、見る人に好印象を与えそうだと述べている。

 

 問題は「課題解決」の中身である。国民民主党は、冒頭の議員定数削減問題でも述べたように「やってる感」だけで、解決の中身は空っぽなのである。根本的な解決ではなく、問題の核心部分をスルーした偽善的な解決に過ぎない。要は国民民主は解決を謳うだけで全面的・根本的な解決をする気はないのだ。もし本気で課題解決に取り組む政党をアピールするのなら、疾走感やスピード感よりも、もっと真剣さ、冷静さ、知性といったものを出すべきだろう。

 

 維新が言い出しっぺの議員定数削減に乗っかって45から31に削減数を減らすのが、私たち国民・市民にとって本当に「解決」と言えるだろうか。たとえ削減数を減らしても、定数削減が国民の多様な声をシャットアウトするという問題そのものは何ら解決されていない。この問題を本当に解決するには、自民・維新の与党に正面から対決し、議員定数削減が全く必要ないことを主張し、この法案を廃案に追い込むことだ。大切なのは、国民民主が言う「対決より解決」ではない。「解決のためには対決」が不可欠なのである。

 

 玉木雄一郎の疾走は、課題解決に向かって走るどころか、その課題からの逃走・遁走・失踪を裏返しで表現しているような気がしてならない・・・