米国の新興企業「アンソロピック」が開発した高性能AI「クロード・ミュトス」の破壊力に世界が慄いているわけだが、システムの脆弱性を突くそのサイバー攻撃能力は人間の想定をはるかに超え、「核兵器並み」の脅威だという。ミュトスによるサイバー攻撃によって金融システムなどの社会インフラが完全にシャットダウンする恐れがあるからだ。日本政府はいち早く、こうした最先端AIへの対策を練る方針を固めたという。
ところで、「自由至上主義」とか「自由原理主義」などと日本語に訳される「リバタリアニズム」というイデオロギーが米国で広がりを見せていることは周知だと思うが、なかでも近年急速に影響力を伸ばしてきているのが、極めて高い論理・数学的知能を持ち、最先端テクノロジーと結びついて世界を変えようとしている人たち、すなわち「テクノ・リバタリアン」と呼ばれる人たちである。
テクノ・リバタリアンを代表する人物として、掲題の橘玲氏の本で取り上げられているのは、その「第一世代」と位置づけられるイーロン・マスクやピーター・ティール、「第二世代」とされるサム・アルトマン、ヴィタリック・ブテリンらである。いずれもシリコンバレーのテック長者たちだ。
著者の橘氏は、テクノロジーの指数関数的な高度化によって、孔子や仏陀、カント、マルクス、ポストモダンなどが説く「思想」は過去の遺物となり、「いまや世界を変える思想はリバタリアニズムだけ」(本書p.8)と言い切っている。だが本当にそうだろうか。是非本書を読んで考えていただきたいが、私は高度化したテクノロジーに過度に依拠したテクノ・リバタリアニズムが「より良い世界」「より良い未来」を築く思想だとは思えないし、また「世界を変える唯一の思想」だとも思わない。
革命のような「大きな物語」の幻想がすべて潰えたいま、テクノ・リバタリアニズムが「世界を変える唯一の思想」になった。それが生み出すものがユートピアになるか、ディストピアになるのかを決めるのは、わたしたちの「自分とのたたかい」なのかもしれない。
(橘玲『テクノ・リバタリアン』p.233)
私としては、橘が「すべて潰えた」とする「大きな物語」の立場からあえてテクノ・リバタリアニズムをとらえ返してみたいと思う。そうすれば、本書で紹介されているようなテクノ・リバタリアンが描く世界像がいかに危険で非人間的なディストピアであるかがわかるのではないか。そのような「大きな物語」の視点を欠いていることが、本書にテクノ・リバタリアンへの批判や懐疑の視点がないことにつながっている。
本書によれば、テクノ・リバタリアンは、テクノロジー(暗号技術)によって政府や企業のような中央集権的な組織(権力)から解放された自由な社会の実現を求める立場と、テクノロジーによる効率的な監視システムによって社会の効用(多数者の幸福)を最大化しようとする立場の二方向に分かれるが、両者は中央集権的な支配を認めるか否かで対立しているように見えるが、ともに「個人の自由」を至上の価値とするという点で一卵性双生児のような関係にあるとされる。前者は「クリプト・アナキズム(暗号無政府主義)」、後者は「総督府功利主義」と呼ばれる。
私が特に問題だと思ったのは、テクノ・リバタリアンの反民主主義的な性格である。その極端な技術信仰とエリート主義は、民衆による支配という民主主義の理念とは相容れず、むしろそれと対立し、人間社会の多様性や倫理性といったものを軽視もしくは否定する傾向がある。「すべての問題はテクノロジーによって解決できる」という傲慢な技術万能論に基づいて彼らが描く「火星移住」「不死」「AI超人類」といった幻想的な未来像は、現実の貧困や不平等、人権侵害、排外主義といった諸問題を見えなくし、結局のところ少数のテクノ・エリートによる支配、事実上の寡頭政治を正当化するものとなっている。
例えばクリプト・アナキズムは、暗号技術によって主権が国家から個人に分散される社会を構想するが、その社会も「テクノロジーを使いこなし、自己主権を管理できる者たち」=「1パーセントのマイノリティ」のためだけの世界なのだ。
このようなテクノ・リバタリアンの思考様式や未来ビジョンを本書で知ると、ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスが説いた「テクノ封建制」を想起しないではいられない。アマゾンやグーグルなどの巨大IT企業が提供するプラットフォームは、さしずめ封建時代の「領地」のようなもので、それを利用する私たちは「農奴」のようにその土地に縛りつけられ、身動きできない状態になっている。そして、「領主」であるIT企業トップに私たちが支払う利用料は「封建地代」と等置できよう。現代は資本主義から「テクノ封建制」に移行しているというバルファキスの議論は、橘氏の本書を読むことでより説得力を増す。
橘氏は、産業革命以後の私たちの社会が「封建制」に戻ることはないと断言するが(本書p.239~p.240)、本当にそうか。技術の指数関数的な進歩にのみ眼を奪われて、「大きな物語」が持っていた歴史的、理念的、批判的な見方を忘れていないだろうか。「過去の遺物」とか「歴史主義」と切り捨てる前に、改めて「大きな物語」の立場から、テクノ・リバタリアンの台頭を注意深く観察・監視し、批判を強めていかねばならないと思う。
そもそも、誰が、何のために、ミュトスのような高性能AIを開発するのか、そしてそれは人間社会に何をもたらすのか――高性能AIによって人類の存立が脅かされる今だからこそ、いったん原点に立ち戻ってAIの問題を考え直したい。
その点で、先日ローマ教皇が発表した「マニフィカ・フマニタス(偉大な人間性)」と題された公式文書「回勅」は重要だ。そこではAI時代こそ人間性や人間の尊厳を大切にすること、また人間の労働の価値を見直すことが述べられている。教皇はAIなどの技術の進歩そのものを否定しているわけではない。そうではなく、技術の使われ方、技術進歩のあり方を問題にしているのである。とりわけAIなどの最先端技術が戦争や児童労働の搾取などに利用されることに警鐘を鳴らしている。
ローマ教皇は人間の尊厳をいかに守るかという観点から、まさにAI時代の「大きな物語」を紡いでいる。その発表イベントの場にアンソロピックの共同創業者クリストファー・オラが出席していたことも興味深い。オラは教皇の発表文書に賛同し、AI技術者と倫理的権威であるバチカンが協力していくことの必要性を訴えた。その方向性は教皇が説く「人間性の物語」に沿ったものだ。
私たち市民もアンソロピックのような倫理的なAI企業やバチカンなどと連帯して、人間の尊厳を損なわないような技術のあり方を模索していかねばならない。何よりAIの非軍事化、人工知能の武装解除は喫緊の課題であろう…



