随筆「人間革命」光あれ | 前進あるのみ・願兼於業・一期一会・37兆の細胞よ、闘え!

前進あるのみ・願兼於業・一期一会・37兆の細胞よ、闘え!

一歩ずつでも前進する。願兼於業。一期一会。37兆の細胞よ、闘え!私はてんかん発作が酷くて、左脳の海馬と扁桃体を切除術を受けました。東日本大震災の映像を見てから、シェーグレン症候群になりました。線維筋痛症、リウマチ。

令和2年3月11日(水曜)

〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 
冬は必ず春となる
ここは、もう花咲く春! 「咲」の字は「咲(え)む」「咲(わら)う」とも。朗らかな笑顔の花が咲くところ、幸の園が広がる
(3月3日、池田先生撮影、都内で)

大震災から9年 風雪越えて我らは堂々と
〽風雪越えし 我等こそ
 地涌の正義の 旗頭
 今堂々の 陣列は
 使命の旗を 高らかに
  …… …… 
 ああ東北の
     凱歌の人々よ
   
 今朝も妻がかけてくれた東北の歌「青葉の誓い」を聴きながら、愛してやまぬ、みちのくの天地に思いを馳せた。
 「東日本大震災」から九年――。
 東北をはじめ被災地の宝友たちは、どれほどの苦難と辛労の風雪を越えてこられたことか。
 未曽有の大災害から歯を食いしばって立ち上がり、友に手を差し伸べ、愛する郷土の蘇生のために尽くし抜かれてきた「地涌の正義の旗頭」の一人ひとりに、私は最敬礼し合掌する思いである。
 それは一日また一日、何ものにも壊されない「心の財」を積み上げてきた“三千三百日”なりと、必ずや御本仏が照覧してくださっているであろう。
 あらためて、全ての犠牲者の方々に、また震災後に逝去された方々に、心から追善回向の題目を捧げたい。
 亡くなられたご家族、同志、友人方も皆、生死を超えて、厳然と妙法の無量無辺の福光に包まれていることを、私は確信してやまない。
 

「元初の太陽と」
 「青葉の誓い」には、「これぞ元初の 太陽と」と歌われている。
 私は、東北の友のありのままの人間味が大好きだ。そこには「元初の太陽」の輝きがある。太陽だから、気取りや体裁など必要ない。「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(御書七五九ページ)の生命で、明るく温かな思いやりの光を、皆に送っていくのだ。
 殉教の師・牧口先生は戦時中の弾圧下、福島県の郡山、二本松に足を運ばれた。一人の青年の父母への対話などのためであった。この先師が大切にされていた御聖訓がある。後に特高警察に押収された「御義口伝」にも線が引かれていた。
 「煩悩の淤泥の中に真如の仏あり我等衆生の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを当体蓮華の仏と云うなり」(同七四〇ページ)
 苦悩が渦巻く社会に飛び込み、泥まみれになって、人びとのために戦い続けていく人こそ「当体蓮華の仏」なのである。
 わが東北の同志たちは底知れぬ逆境の闇夜にも断じて屈しなかった。
 時に悲嘆の涙を流し、時に運命の非情さに憤怒しながら、題目を唱え抜き、「負げでたまっか」と励まし合って、広宣流布に邁進してきたのだ。
 ここにこそ、日蓮大聖人に直結する真実の仏の誉れの実像があると、創立の父も讃えておられるにちがいない。
 大震災を乗り越えてきた創価の少年少女と青年たちが、たくましく成長している。頼もしいその英姿こそ、何よりの希望である。苦悩を突き抜けて、朗らかに大輪を咲かせる「蓮華」の生命そのものではないか。
 

尊き無冠の走者
 太陽がまだ昇りきらぬ寒い朝も、“無冠の友”は一軒また一軒、聖教新聞を届けてくれている。感謝は尽きない。どうか、今日もお元気で! 日々絶対に無事故で!と申し上げたい。
 今、読者の心へ、希望の声、勇気の言葉を送る言論城・聖教の使命は、極めて大きい。
 被災地である宮城県東松島市の母も、幸福勝利のバトンをつなぐ走者として配達されている。大震災の津波で母上と次男を亡くされた悲しみを胸の奥に畳み、できることは何でも喜んでと、励ましに生き抜く母である。
 私がかつて共に対談集を発刊したアメリカ・エマソン協会元会長のサーラ・ワイダー博士も、はるばるこの尊き母たちを訪ねられ、その「強い心」に感銘し、出会いを宝とされた。博士から送られたメッセージでも、「互いにどんな時も全力で献身を」と固く約し合われたのだ。
 

希望の歌声届け
春本番へ、威風堂々と!――本部幹部会・東北総会の掉尾に、扇を手にして。この後、学会歌の指揮を執った
(1999年3月9日、
  八王子市の東京牧口記念会館で)

 岩手県の三陸の友からも嬉しい便りが届いた。
 先月の初め、音楽隊・しなの合唱団による「希望の絆」コンサートが、岩手県三陸沿岸の六市町村――大槌町、山田町、宮古市、田野畑村、普代村、洋野町で行われたのである。
 歌声に乗せて、勇気の春風を届ける若き楽雄たちを、地域を挙げて歓迎してくださり、多くのご友人も来て喜ばれたと伺った。
 「学会の皆さんの気持ちに触れて、元気が出ました」「被災地の生活は大変ですが、長生きしたいと思いました」等々、反響が寄せられている。
 わが同志が、いかに粘り強く地域に貢献し、友情と信頼の花を咲かせてきたことか。一歩また一歩と前進し、あの友この友のために、誠実に心を砕いていることか――。この人間性の輝きこそが福光の希望となり、復興の底力となるのだ。
 

常磐線駅の邂逅
 間もなく、JRの常磐線が九年ぶりに「全線運転再開」となる。
 常磐線といえば、福島・浜通りの同志との出会いが懐かしく蘇る。それは、私が会長に就任した年(一九六〇年)の十一月のことである。
 盛岡からの帰路、湯本駅(現いわき市)に地元の友らが駆けつけてくれたのだ。たまたま発車が遅れたので、十五分ほど駅のベンチで懇談できた。
 駅で励ました乙女が今も広布の母として活躍するなど、いわきの友の勝利の近況が嬉しい。
 東北家族が不二の心で織り成してきた、無数の「人間革命」の凱歌に私は胸を熱くする。
 長く厳しい復興への奮闘の中で、体調を崩した宝友もおられるが、全ての利他の振る舞いが尊い「身の供養」である。「転重軽受」「変毒為薬」の大功力は厳然だ。「常楽我浄」の軌道を、永遠に進みゆかれることは断じて間違いない、と確信する。
 

最後は必ず勝つ
 東北の友と異体同心のスクラムで吹雪に胸を張って前進してきたのが、北海道の友である。
 この三月十一日は、北海天地で、創価の正義を満天下に示した歴史的な「小樽問答」から満六十五年でもある。
 あの「3・16」広布後継の大儀式を間近にしていた時、小樽支部の初代支部長として戦った友を、戸田先生が激励されたことがある。
 「いやなこと、辛いこと、悲しいこともあるにちがいない。むしろ、人生は、その連続だろう」
 「だが、信心を全うし抜いていけば、最後は必ず勝つ。いろいろなことがあっても、幸福と言い切れる境涯になるよ」
 三代城・北海道と青葉の人材城・東北への恩師の思いは、あまりにも深かった。私も師と同じ心で、北国の友と生き抜いてきた。
 

爛漫と咲け! 負けじ魂の「福光桜」
碧(あお)い湖畔に、待ちかねたように桜が咲いた。春へ、春へと、自然は確かな足取りで進む
(1983年4月、池田先生撮影、
         宮城県の釜房湖で)

耐えてこそ開花
 北国の冬は長く、厳しい。だが、寒風の下でも、木々は力を蓄え、芽吹きの時を待つ。
 大震災の年の九月、私は小説『新・人間革命』の「福光」の章を綴った。
 昭和五十二年(一九七七年)の三月十一日に福島を訪れ、三日間にわたって東北の友を励ました歴史である。この折、私は「創価之山桜」など“桜”の揮毫を東北の友に贈った。
 いかなる試練や苦難の冬が続こうとも、我らは胸張り耐え抜いて、断固として咲き誇るのだ! 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)という希望の大哲理を社会へ、世界へ、未来へ示していくのだ!――との願いを込めたのである。
 まさしく、不撓不屈の負けじ魂で、「冬は必ず春」を実証してきた同志こそ創価山の“福光桜”にほかならない。
 大聖人は、こうも仰せである。
 「冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(同一〇九一ページ)
 我らは、変化を恐れまい。一人も残らず、勇敢な賢者として価値を創造していくのである。
 

新たな黄金時代へ 先駆者の使命は深し
 現在、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、国内外で医療関係者はもとより社会全体で力を尽くしている。昼夜を分かたぬ多くの方々の労苦に深謝するとともに、一日も早い終息、安穏な日常の回復を、強く深く祈り願ってやまない。
 かのトインビー博士は呼び掛けられた。
 ――「危機の時代」を生きる人間は、事態をよい方向へと打開し、今を「偉業の行われた時代」に転じ、「黄金の時代の先駆者」となるのだ、と。
 若き地涌の勇者たちが世界の友と手を携えて、強く賢く朗らかに「黄金の時代」を開いていくことを、私は信じている。
 

「自然に仏界に」
 東北・北海道をはじめ全同志と繰り返し拝してきた「開目抄」の御金言を、今再び、心肝に染めたい。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(御書二三四ページ)
 創価の師弟は、諸難の連続の中にあって、この仰せを「まことの時」に断じて忘れず貫き通してきた。だからこそ、一人ひとりが「自然に仏界」を勝ち開いてきたのだ。
 そして、これからも、諸難を一つまた一つ、勝ち越えながら、いやまして「仏界」という最極の生命の大連帯を、地球社会へ広げていこうではないか!
 
〈引用文献〉 トインビーは『歴史の教訓』
     松本重治編訳(岩波書店)。
   ― 聖教新聞より転載 ―