こんにちは

こころとからだの発達相談塾えいところ

森實です

 

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とあるカフェの出来事

 

 

お客さんで

車いす利用の方がいらっしゃいました

 

カフェは決して

バリアフリーには

なっていなくって

車いすでは

過ごしづらさがあります

 

店主がお客さんに

言います

 

「ごめんなさいね

バリアフリーになってなくて

トイレの手すりとかも

ないのよ」

 

お客さんは答えました

 

「必要な時に

手を貸してもらえれば

それでいいのよ」

 

さらに

こういうお話もされたそう

 

「手伝ってくれる人がいたら

バリアフリーでなくても

何とかなるものなのよ

 

でも

やっかいなのは

人のこころの中にあるバリアよ」

 

と。。。

 

 

 

先日

とある小学校での

支援会に参加しました

 

学校に長く通えていないのには

それなりの

環境的な要因が

あるのだけれど

 

そこは

なにかと

改善のアイデアが

出されていて

(初めからしてくれればいいのにと思いましたが)

 

もちろん

それを全力で

実践していただきたい

ところなんだが

 

お話を聞いていると

やはりちらほら

見え隠れするんです

気になる言葉の表現がうーん

 

そこから想像するに

こころの芯の部分で

本当に

この子の大変さを

分かっているのかしら?

思わざるを得ないぼけー

 

 

なので

カフェでの出来事のように

結局

残されたのは

こころの中にある

バリアだなぁと

感じたのでした

 

特に自閉症スペクトラムには

目には見えない

多くの困り感があります

でも

相手にそこを

理解してもらうという点で

評価が違って

真に分かり合えないことがあります

 

そこまでしなくてもいいんじゃないか?

とか

思い込みすぎなんじゃないか?

とか

そもそも関わり方(育て方)が

間違ってるんじゃないか?

とか

心配のしすぎなんじゃないか

とか

言われてしまうことが

多々あるわけです

 

 

学校に行けなかったり

お家と外での様子が

大幅に異なるような

目に見えて

つらい事態になっているという

事実が目の前にあったとしても

こういう意見って

根強く聞こえてくるんですよね

 

初期の見立て違いで

作成された支援計画なんて

役に立たないどころか

逆に

その子をまた

傷つける結果に

つながってしまうかもしれない

 

理解ないままの

表面上の

取り繕いなんて

意味がないのです

 

さあ、これから

学校はどうするつもりだろうか

 

やると言ったことは

しっかり守っていただきたいと

思うところです