初めての部下に見切りをつけてから多くの部下を育ててきたが、誰一人として男の元に残るものは居なかった。
「男の元についたら潰される」
そんなレッテルが貼られる頃には「男に上司としての器は無い」という不名誉な烙印が押されていた。
完璧でいなければ気が済まない男にとって、そのレッテルは不愉快極まりないものだった。
なんとかそういったイメージを払拭しようと孤軍奮闘してきたものの、やればやる程、足掻けば足掻く程男の望みとは逆に、完璧とは程遠い評価をされていくであった。
(何故だ。何故分からない)
(ここには俺の事を理解出来る優秀な奴は居ない)
(無能達に囲まれていては、俺の完璧な人生設計から逸脱してしまう)
(早急にこの場所を去らねばならない。しかしここ以上の条件の会社なんてあるのか?)
男は自身へ不名誉な烙印を押す環境に見切りをつけ、新天地を求め探していたが、男のプライドが男から広い視野と冷静な判断力を奪い身動きを取れなくしていた。
日々のストレスが積み重なり、男の生活は変わった。健康的な生活は地に堕ち、現実から目を逸らす様に酒を浴びる様に飲む様になっていた。絞まった体は徐々に気力が抜けて、艶のあった黒髪には怒りや不満を自身の内で焼いた様な白髪が所々に目立つ様になってきていた。
(そういえば、最近は不平不満をよく言う様になったな)
自身に満ちた口角は今では見る影もなく、一文字に結んだ口元は重力に引かれて弧を描いている。なるほど、これでは不平不満も出るというものだ。
自身の頬を軽く撫ぜ、指先を目元へと滑らせる。
いつの間にか眉間には深い皺が刻まれており、男の葛藤の深さが窺える。ふと、ガラスに映った己に視線を飛ばすと、ガラスの向こう側の自分と目があった。そこには自身への不当な評価と無理解を示す者達への怒りからか、鋭い眼が辺りを睥睨していた。
自身の変わり様にただただ呆然とした。
(どうしてこうなった?)
自身の変わり様を認識した後も、男の頭の中には「何故」が渦巻いていた。
自分は完璧にこなしてきたはずだ。それにも関わらず周囲の者達はそれを理解しない。そればかりか不名誉な評価ばかり下してくる。
(何故だ。何故だ。何故分からない。どうして誰も理解してくれないんだ)
なまじ完璧な人生設計だっただけに、完璧から外れ始めた自分の人生が許せなかった。しかもそれが自分の実力ではなく、他人の責によって完璧を阻害されているのだから彼の心境は穏やかではなかった。
周囲への無理解と、自身への無理解。無理解が重なりあい、それはいつしか「怒り」へと変貌していった。
全て彼奴らが悪い。全てを投げ出してやりたかったが、彼の「完璧症候群」は厚かった。自身の中身がぐちゃぐちゃであったにも関わらず、それでも「完璧」を取り繕った。人に八つ当たりせず、理不尽に怒鳴りつける事もなくただただ「怒り」を自身の内で燃やし続けた。
しかし、虚しいことにどう足掻いても男の内面は外側に滲み出てしまっていた。常に全身から怒気を漂わせており、彼に近づきたいと思うものは少なくなっていた。
(俺は何も変わっていない。俺は完璧である筈なのに)
「何故だ」
男の内で何故が常に渦巻いていた。自身を怒りの炎で焼きながら、答えのない堂々巡りの日々に彼は次第に疲弊していった。
気がつけば男は燃え尽きて灰になってしまっていた。
瞳には以前の様な鋭さはなく、灰の様な静けさがみてとれた。
「疲れたな」
ある日の事、彼の中で何かが切れた。完璧とは程遠い自分になってしまい、なんとか自身の内に完璧を取り戻そうと奮闘してきたが、それも振るわず虚しい現実が突きつけられ何だか全てどうでもよくなってしまった。
会社に向けていた足を止め、踵を返して駅へと向かった。
2月の寒さがまだ残っていたが、街路樹には春の兆しが見え隠れしていた。
冬と春の境目を歩きながら、男の視線はオープンテラスのカフェに向けられていた。いつもの通勤ルートにはいつの間にか小洒落たカフェが建てられいた。店内が良く見えるガラス窓に、少し細くなった寂しげな自分の姿が反射して写っていた。
そんな自分を直視しない様視線を落として歩みを再開する。
(瞬く間に街並みは変わっていくな)
温い感傷に浸っていると、唐突に思い出した。
「久しぶりにあそこに行ってみるか」
いつからだろう。日常の忙しなさからいつの間にか行かなくなっていた、自身の落ち着ける場所。今の今まですっかりと忘れてしまっていた場所へ、男は歩いていく。
続く