日本人に欠けている「計画」と「議論」 | 線路の外の風景

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様々な仕事を経験した管理人が、日々思っていることなどを書き綴ります。基本的に,真面目な内容のブログです。

 主に体調不良のため、ずいぶん久しぶりの投稿になってしまいました。これからは、少しずつブログの執筆活動も再開して行こうと思います。

 

 

 2020年11月1日、『大都市地域における特別区の設置に関する法律』第7条の規定に基づき、大阪市を廃止して4つの特別区を設置することの是非を問う住民投票が行われ、僅差ながら否決となりました。

 このように書くと「一体何のことだ?」と思われる方がおられるかも知れませんが、いわゆる「大阪都構想」の話です。

 法律上は、別に住民投票が可決されても大阪府が「大阪都」に変わるわけではないので、「大阪都構想の是非を問う住民投票」と呼ぶのは誤解を招くおそれが高く適切ではないのですが、なぜか「大阪都構想」という名前が定着してしまっています。

 

 住民投票の告示前は賛成派が有利と予測されていた今回の投票において、結果を大きく覆す要因になったのは、おそらく投票日近くの10月26日、特別区に移行した後の行政コストに関する毎日新聞の報道があり、同報道によれば、大阪市を4つの自治体に分割した場合、標準的な行政サービスを実施するために毎年必要なコスト「基準財政需要額」の合計が、現在よりも約218億円増えることが市財政局の試算で明らかになった、とされています。

 もっとも、この試算は間もなく大阪市によって「重大な誤報」とされましたが、これに代わる大阪市当局からの適正な試算が示されることは、ついにありませんでした。この試算をめぐる一連の報道により、大阪市民は約218億円という数字自体の当否はともかく、「大阪都構想」を推進しようとしている大阪維新の会が、自民党などの求めにもかかわらず特別区設置後の行政コストに関する具体的な説明を一貫して拒否してきたこと、大阪市を廃止して4つの特別区を設置すれば、行政のコストは削減されるどころかむしろ増える可能性が高いということに気付いたことでしょう。

 

 これは、よく考えれば子供でも理解できる話です。

 とある修理業者があなたの家にやってきて、あなたの家を私どもに修理させてくださいと言ってきたとしましょう。あなたは、当然ながら「修理費用はいくらになるのですか」と業者に質問します。ところが、その業者は何度尋ねても具体的な金額の提示を拒否し、「おそらく悪いことにはなりませんから、私どもにお任せください」としか答えません。あなたは、このような業者に対し、安心して自宅の修理を依頼できるでしょうか?

 言うまでもなく、これはあなたを「大阪市民」、あなたの家を「大阪市」、修理業者を「大阪維新の会」に例えたものです。まともな政治家であれば、大阪市を廃止して特別区に移行するなどという大規模な行政組織改編を提案するにあたり、移行後の行政コストが移行前に比べどのように変わるのか、あらかじめ自ら試算を出して公表するか、少なくとも公表すべきであると考えるでしょう。

 その程度の基本的な計画性すら持ち合わせていない政党が、無責任な行政改革案を提示し、否決されたとはいえ有権者の半数近い支持を得たという事実に対しては、むしろ怖ろしさを感じます。

 

 

 管理人は、ちょうど小説執筆構想の参考にするつもりで、『神を哲学した中世 ヨーロッパ精神の源流』(八木雄二著、新潮選書)という、一見現代の日本政治とは何の関係も無さそうな本を読んでいたのですが、その中に興味深い指摘がありました。

 同著38~39ページによると、中世ヨーロッパのキリスト教世界では、すべての事柄は神が立てた計画が実際化(完了)したものであるということが強く意識されており、神による計画や立案を意識しない人間は野蛮人であるとみなされていたそうです。その流れを受けた欧米中心の現代世界においても、あらゆることに計画の立案が求められ、それが出来ない人間は(少なくとも欧米諸国においては)組織運営を知らない者として、侮蔑の対象になるそうです。

 そうした欧米諸国に比べると、日本では明らかに計画の重要性があまり認識されていません。大阪市だけでなく国の例を挙げても、Go to トラベルとか Go to イートとか、立案者の精神構造を疑いたくなるほど場当たり的な政策が実行され、何か弊害が露見するたびに制度が何度も変更され、国民を振り回しています。

 ここまで計画性のないことを平気でやる政治家がなぜ国民の約半数に支持されているのか、管理人は理解に苦しみます。

 

 「計画」と並び、キリスト教の強い影響を受けた欧米諸国と比べ日本に欠けているものとして、「議論」の文化を挙げる必要があります。キリスト教と言っても、ローマ・カトリックと東方正教とでは中世以降の歩みが全く異なり同一視は出来ないのですが、少なくとも11世紀頃からのローマ・カトリック世界では、知識人の間で『普遍論争』と呼ばれる論争が盛んになり、その過程で古代ギリシア哲学が神学的議論の道具として西欧に流入し、その流れを受けた現代の欧米諸国でも、哲学は思考や議論の能力を鍛えるものとして重視されているそうです。

 それに比べると、日本人は基礎教育において、議論に関する訓練を全くと言って良いほど受けていません。管理人は一応東京大学の卒業生であり、さすがに東京大学の教養課程にはディスカッションをする授業もあるにはあったのですが、ほとんどの学生は正解を導く勉強の訓練こそ受けているものの、管理人自身を含め議論する訓練をまともに受けていないため、学生の間で中身のある議論が出来ていたとは言い難い状況でした。

 そのためか、日本では役所や会社などの組織においても、意思決定は緻密な議論を経てなされるのではなく、組織のトップがほぼ独断で決めるか、あるいは根回しの上手な人が玉虫色にまとめるといったことになりやすい気がします。西欧と異なり、例えば江戸時代の薩摩武士は「議を言うな」と教えられていたそうですが、このように日本では議論を好むことはむしろ悪徳とみなされてきた歴史が長く、今日における日本人の議論下手も、そうした歴史と無関係ではないでしょう。

 近年は、政治の世界にもインターネットが活用されるようになっていますが、少なくとも日本人の行う政治論争はおよそ「議論」と呼べるようなものではなく、賛成派と反対派が全く違う土俵で互いを罵り合っているだけです。最近の若者は政治に無関心だとよく言われますが、管理人の世代でさえうんざりするインターネット上の不毛な罵り合いに、関心を示す必要性を認めないという若者が増えてきても、それは致し方ないような気がします。

 明治維新の時代に、日本は西欧諸国から多くのものを学びましたが、どうやら当時における日本の知識人は、キリスト教精神に裏付けられた「計画」や「議論」の在り方を学び取ることを重要視しなかったのでしょう。ひたすら欧米諸国の背中を追いかける時代はそれでも何とかなったのかも知れませんが、新しいものを生み出すのに必要な「計画」や「議論」の適性が日本人に欠けていることは、将来の日本にとって致命的な結果をもたらしかねません。

 巨大な軍事大国である中国相手ではいくら投資しても焼け石に水にしかならない防衛(実質的には軍事)などに力を注ぐより、日本人に欠けている「計画」や「議論」の資質を磨く教育こそが、日本の生き残りには必要ではないでしょうか。むろん、独善的な傾向のある欧米式の思考様式が全て良いと主張するつもりはありませんが、日本人の欠点は欠点としてきちんと認識しないと、決して良い方向には進みません。

 

 

 話を冒頭の「大阪都構想」に戻しますが、かの構想を言い出したのは橋下徹氏です。橋下氏は口達者で知られていますが、あの人は議論が上手いのではなく、わざと「敵」を作り敵を口汚く罵ることで、自分を凄い人間だと錯覚させるテクニックに長けているだけです。

 橋下氏の考えた「大阪都構想」なるものは、大阪府知事に就任した橋下氏が、大阪市の抵抗により自分のやりたい改革が上手く進まないので、邪魔な大阪市を潰してしまえという短絡的な発想から生まれたとしか思えないのですが、それでも敢えて「大阪都構想」と銘打って大阪人の東京に対するライバル意識に火をつけ、結局実現には至らなかったものの多くの支持者を集め、住民投票で大阪市廃止の一歩手前というところまで漕ぎつけてしまいました。

 そうした才能も、政治の世界では確かに類稀なるものであり、正しい目的に使えば大きな政治的業績を残せたかも知れませんが、残念ながら大阪市を廃止し東京と同じ特別区制度に移行すれば行政効率が向上するという橋下氏の主張には、客観的なエビデンスが全く欠けていました。まっとうな議論には確かな根拠が必要であり、根拠のない主張を触れて回ることは、「議論」ではなく単なる「扇動」です。

 せっかく政治生命を賭けてまで取り組むのであれば、橋下氏やその後継者である松井氏、吉村氏は、なぜ伊丹空港の廃止という課題に取り組まなかったのでしょうか。大阪周辺に伊丹空港、関西空港、神戸空港という3つもの空港があるのは明らかな供給過剰であり、伊丹空港の廃止は橋下氏の持論でもあったはずなのですが・・・?

 大阪市の廃止と特別区への移行に関する住民投票が否決に終わった後、管理人は否決の大きな原因を作った毎日新聞社を橋下氏が物凄い勢いで罵倒するのではないかと予想していましたが、住民投票後における橋下氏の言動は、意外なほどあっさりしたものでした。「大阪都構想」が無理筋のものであることは、ひょっとしたら橋下氏自身が一番よく理解していたのかも知れません。

 これを機に、いい加減「計画」や「議論」の重要性に目覚めなければ、日本人は再び橋下氏のような衆愚政治家に惑わされてしまうことになりかねません。