自分の顔は鏡でしか知りえない。自分の体も鏡でしか知ることはできない。

 

でも、手足は違う。突き出した足。差し出した手。

 

時折、無意識に、ひとり感傷に浸ることもなく眺める。

 

本で銀座のクラブのママは指を見るらしい。指で職種を判断する。

店の店員は姿恰好、靴、小物か。あとは立ち振る舞い。

 

別にそんなことは余談だが、自分の手は昔から傷だらけだ。

それでも、歌舞伎町時代は白く栄養なく細っていても張りがあったように思える。

 

現在は張りも弱くなり、しわが寄り始めてるように感じる。

 

手と顔は歴史を物語る。

 

手を差し出し、眺める。何も思わない。これが現実だ。

 

十代、二十代はそれでも差し出した手が憎く、自分の手ではないように思えて

いた。

 

『こんなものさな』手がこれまでの歴史を物語ってくれる気がする。

それを客観視している。

 

自分で自分の状況を受け入れている。

 

自分が得るかもしれない可能性。自分がえてきた過去。全ては差し出した手が物語る。

 

『これが自分だよな』

 

悲観することもない。達観することもない。

 

『人を恨んでも仕方ない。自分を憎んでも意味もない。そうでしょ?違う?あなたが選んだでしょう?悩んでもいいけど、後悔しても意味ないよ』

 

Ýさんに言われた。その通り。何の意味もない。その意味がようやく分かる。

 

差し出した手を見る。事実のまま。現在となってはただそれだけ。