永楽荘207号室

永楽荘207号室

ネコ脱出 朴 贊革のブログ。


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芝居の本番が挟まってから、ずーっと放ったらかしにしていました(笑)

もうそろそろ終わらそっかなあとも迷いながら、もう少しキリの良いとこまで。

中学の文化祭のお芝居の主役で調子に乗って、関西で芝居の世界に足を突っ込み、やがて行き詰まり、東京での出直しを選ぶも、選んだ劇団に一年で切られ、受けたオーディションも落ち、途方に暮れていた僕にも、ようやく出番の話がやってきたところまで話が進んでいたかと。

それもワークショップオーディションで、僕的には一二を争うほど面白い役者と思っていたのに共に落ちた「戦友」から。

さっそく、その劇団の主宰さんと会う。

某大スターが昔アルバイトしていたという都内の某喫茶店にて。

妙に愛想よくしてくれるウェイターさんがいた。

彼もその劇団の劇団員だという。

この人が、この後の僕の役者人生を引っ張ってくれる一人だとも知らずに、根が内気な僕は、屈託無い押しの強さに実は半分引いていた(笑)。

とにかく出番が欲しかったので、即決で出演を決めさせてもらった。

今、思い出しても、風変わりな芝居をする劇団だった。

狂喜乱舞という言葉がしっくり来るくらい、歌い狂い、踊り狂い、演じ狂う劇団といった印象。

めちゃくちゃ楽しかった。大変だったけど(笑)。

その劇団が解散し、再結成され、いまは飛ぶ鳥を落とす勢いの人気劇団になっているのは感慨深い。

僕は僕で、さっき書いた喫茶店のウェイターをしていた劇団員さんのプロデュース公演に呼ばれ、さらにその人の紹介で会話劇系の劇団に出演するようになった。

そこで、勢いだけの、力ずくの、気合いだけの演技を根っこから叩き直されることになった。

あれほど悶々とした稽古の日々は後にも先にもない(笑)。でも、コテンパンにやられながらも何故か何度も呼んでいただき、大事にしていただいた。感謝。

他にも別ルートの先輩の紹介で出演の話をいただいたり、フリーの役者としてようやく形が出来てきた。

そして、29歳。フリーの役者として形が出来てきたからこそなのか、30を前にした焦りなのか、このままではダメな気がして、ある芸能事務所に所属する道を選んだ。

俳優として生きていくために、好きな舞台だけではなく映像の仕事もやらなくては。

焦っていた。

結局、一年ほどで事務所は辞めることになる。

色んな要素が重なってのことだが、自分個人で動く以上の良い仕事が来なかったことが大きい。

元同期が立ち上げた劇団の旗揚げをスタッフとしてガッツリ手伝ったことも大きい。

元同期とはいえ、東京での同期なので随分年下。

当時の僕から見ても若い彼らが、一つの舞台に向かっていく姿に、自分があるべき方向を見た気がした。

実は事務所に所属してから丸一年ほど舞台に立っていなかったのだが、その旗揚げの手伝い、事務所退所を経て再び舞台に立った。

元々、芝居勘もよくないので、たかだか一年ほどのブランクで、散々な状態になっていた。

それが悔しかったし、また舞台に立てたことがやはり楽しかった。

そしてまた数々の舞台に立たせてもらった。本当にありがたい。

そんな試行錯誤を経て、自分は舞台がやりたいんだなあと再認識した。
↑当時の貴重な写真達。色々、懐かしい(笑)。


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6/14に「来週本番です」みたいなこと書いてから一ヶ月以上が過ぎました。

はい。

ガラ劇「李氏アドン三世」一ヶ月以上前に幕を閉じました。

関係者、お客様、ありがとうございましたm(_ _)m

最初から最後まで喋りっぱなしのアドン役のさいけさんは大変だったろうなあと、今更思い返します。
プレッシャーから開放されて、打ち上げではこんな姿になってました(笑)

芝居の中では暴君狂王でしたからね。

僕の息子ペクトを嬲り殺すシーンの稽古写真。

息子ペクト役の小名木ちゃんのTシャツがTシャツなので、なんだかなあですが、稽古中にも目を塞ぎたくなる緊迫感抜群のシーンでした。



さいけさん。齊藤圭祐さん。良い役者でした。普段ほとんど役者をやらず演出ばかりだという。もったいない(笑)。その、さいけさん主宰で作演出のポポポさんのお芝居が八月末だそうです。みなさま、観劇予定にぜひぜひ。

僕はそのさいけさん演じる三男アドンと王座を争い、挙句暗殺される長男ノドンという役でした。
兄弟のオフショット。劇中ではありえない(笑)

でも普段は阪神ファンのおっさん二人なんで、神宮あたりでこの背中の並びを見る日はきっと来るのでしょう。

息子ペクトと二人で写真館風に撮ってみました。

小名木ちゃん。小名木美里さん。僕が大好きな女優さんの一人。声がずるい。良い声。

そんな女優さんと今年のガラ劇では、三月、六月と連続で関係性や同じシーンを共有できたのは楽しかった。前回は言わば、男と女。今回は父と息子、男と男。芝居やってる醍醐味のひとつ。

この年末は、ついにネコ脱出にも出演してもらえることになりました。すごーく楽しみ。今度は親子ではなさそうです(笑)




長男ノドンと三男アドンの王座争いの中、奔走、苦悩する次男ムスダンを演じた関口裕也くん。

ナイスガイでした。その人柄の良さ、遊んでそうなのに爽やかな風情(笑)が、そのまま芝居に出てる役者さんでした。

ある時、ヤラセで撮った兄弟三人の意味深な仲良し写真。

良い兄弟でした。

実は誰かと兄弟という役をやったことが無かったので、この二人とで良かったかなあと終わってみて思ってます。暗殺されましたけど…(笑)

そんな僕たち三人の兄弟にとって大切だ……いやアドンは腹違いなので朴ノドンと関口ムスダンにとって大切だったのが、


母。李氏様。佐藤沙予さん。こんな同世代で母子というのも芝居ならでは。

芝居に対して真摯で、自分に厳しい、敬意の抱ける共演者であり、普段は意外と乙女な可愛らしい方でした。

さてさて、全共演者を書いてると切りが無くなるので、家族だけで終わっておこうと思うのですが、写真持ってるひとだけ簡単に。
一番しんどいポジション、作品の陰日向で大活躍だった通称「喜び組」の皆さん。本当に頭が下がる毎日だったなあ。この写真、笑女役の大里冬子ちゃん、笑いすぎで好きっす(笑)

すーさん。リャン将軍を演じた鈴木貴大さん。仕事が丁寧で正確で再現能力が高くて、それでいてちゃんと生もので、本当に観てて勉強になる先輩役者さんでした。

儒教の師ソドム様の竹田航くん。前回のブルーホエールチャレンジの時にも書いた気もするが、スペックが高い。本当に羨ましい。今度、共演したら、今度こそ、本当に今度こそ、衣装の靴の中に画鋲を入れておく所存。

大臣チム役の福田航くん。若くして良い芝居するひと。先に書いた竹田航くんらと組んでるギロチンメソッドも要注目。「○田航」同士(笑)。で福田くんとは親子ほど年違うけど僕の落ち着く話し相手だったりする。今一番絡んでみたい若手役者さんナンバーワン。

そんな彼とコンビ役で絡んでた同世代役者が、
大臣キグン役のガラ劇主宰・ガラ林さん。時々「ガラバヤシ」と思われてる「ガラはやし」さん。

北朝鮮情勢をリチャード三世と掛け合わせようとした暴君狂王(笑)

九月中旬にガラ版シェイクスピアシリーズ第二弾「飛翔将軍」を手がけるそうです。

今度は、三国志の呂布に纏わる話にシェイクスピアのある名作を絡めるらしいです。

奇才ですな。狂ってる(笑)

それぞれにそれぞれの場所で狂い咲く僕たちですが、今後とも応援していただけると嬉しく。

あー!あのひとのことも、あのひとのことも書けなかった!あー!あー!あー!

みなさま、ありがとうございましたっ!


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ついに本番まで後一週間を切ってしまった。

ガラ版シェイクスピア「李氏アドン三世」



独特のステージワークを展開するガラ劇が

現在の世界情勢を踏まえつつ

シェイクスピア「リチャード三世」に挑む。


上は僕より年長の〇〇歳から下は僕の半分以下の年齢まで多種多様なキャストで!!


何が言いたいかと言うと、


観に来てください。

お願いします。

後悔はさせません。

必死こいてやります。



そんな感じ(笑)。




ガラ劇 第十九弾

ガラ版シェイクスピア
『李氏アドン三世』
〜リチャード三世を聞きながら〜


作・演出  ガラ林


●あらすじ●
西暦7世紀頃
半島では
北を高句麗
南を百済
と国を隔てて争っていた

北の高句麗の王は二人の妃をめとり
二人の妃から三人の王子が生まれた
そして高句麗の王は死に
悲劇の導火線に火が着いた

王位継承権を持たぬ
側室の子三男として生まれた
アドンは
汚れた血を呪いながら
高句麗を我が手にしようと
兄を暗殺し、
その幼子までロントン島に幽閉し
拷問死させる

リチャード三世が
李氏アドン三世として
蘇る!!


●公演日程●
※受付開始は開演45分前、開場は開演30分前より。
※開演5分前より当日券のお客様の入場を開始致します。
※満席の公演に5分前に到着出来ない場合入場が出来ない場合もございます。ご了承ください。

●劇場●
中野ウエストエンドスタジオ
西武新宿線:新井薬師前駅より徒歩7分
JR、東西線:中野駅より徒歩15分

●チケット●
前売 3800円
当日 4000円
学生割 2500円
高校生割 2000円
リピート割 3000円

★学割・高校生割はご観劇当日に必ず、学生証をお持ち下さい。
★学割・高校生割ともに予約および団体でのみのお取り扱いとなっております。
※学割対象者…2018年6月20日時点で大学生または専門学校生の方
※高校生割対象者…2018年6月20日時点で高校生の方

★リピーター割はご観劇当日に必ず『李氏アドン三世』のチケットの半券をお持ち下さいませ!

●キャスト●
ガラ林
宇都恵利花

大里冬子
小名木美里
齊藤圭祐(ポポポ)
竹田航(ギロチンメソッド)
朴贊革(ネコ脱出)
福田航(ギロチンメソッド)

赤星雨(八角家/いちごドロップ)
岩﨑舞
佐藤沙予
篠原ありさ
鈴木貴大((株)レインボー・スタジオ)
関口裕也(エクセルヒューマンエイジェンシー)
辰己晴彦(空想嬉劇団イナヅマコネコ)
仁科亨(劇団東京まほら)
雲雀史隆(劇団バリプロ☆彡)
南川太郎
若山武蔵

くどいようですが、


よろしくお願いします。










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上京して一年。

さっそく所属先を失ってしまった。

オーディション雑誌を片手に舞台や映画の出演者募集を探す毎日が始まった。

東京でまだ何のコネクションも築けていないので、自分の出れる場所をやみくもに探すしかない。

ある意味、真剣に役者としての自分の生きていき方を考えたのは、この時が初めてだったのかもしれない。

そんな中、残れなかった劇団からお話をいただき、テレビドラマに出させてもらった。

これが初めてのテレビ出演。

主演は某ジャニーズのトップアイドル二人。

ヒロインも有名アイドル。

脇を固める、テレビでよく見たベテラン個性派俳優さんもいらっしゃった。

僕は地に足つかず、ガッチガチでした(笑)

「まずは挨拶だけはきっちりするように」との教えを忠実に守り、スタジオに入るや否や元気よく挨拶をした。

…が、メインキャストのみなさんのリハーサル中で、完全に空気読めてないやつになってしまった。

さらにガッチガチになり、壁際で立ちすくんでいると、先に書いたベテランの方がニッコリと椅子を指し示し、「ここ空いてますんで、座ってください」と言ってくださった。

この時の主演のジャニーズのお二人も、ものすごく礼儀正しく気配りのできる方だった。

東京に来て約一年、何人か「有名人」とご一緒させていただいて、やはりこの世界も礼儀とか気配りのできる人が勝ち上がるんだなあということを実感した。

ちなみにこの時のヒロインのアイドルの方は、マネージャーに当たり散らかしたりしていて、その後数年で表舞台から消えてしまった。

僕自身は、せっかくもらったチャンスをうまく活かせなかったが、こうしたかけがえのない勉強をさせてもらった。

そして再び出演者募集を探すことになった。

とあるワークショップオーディションを受けた。

五日間に及ぶワークショップオーディション。

色んな個性を持った役者がいたが、それなりに自分の持ってるものは出せた。

正直受かると思ったのだが(笑)

落ちてました。

受かったひとの名前を見ると、失礼ながら「え?このひとが??」ってひともいた。

そして、このワークショップオーディションで僕の中では一、二を争うくらい良かったと思う面白い女優さんが落ちていたこともわかった。

意味わからんなあと思い、数日を過ごしていたら、その女優さんから連絡があった。

「この夏のうちの劇団の公演に出演してもらえない?」

フリーランスの役者としての第一歩が決まった。










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一ヶ月以上、間隔が空いてしまった💦

来週6/20(水)から本番の舞台の稽古が始まり、気持ちに余裕が無くなってました。

今日は少し時間も出来たので、続きをば。

学校の文化祭で主役をやった気持ち良さが忘れられず、大学二年で演劇の世界に踏み込んだ僕は、27歳でついに東京に来てしまった。

初めて名乗る本名(韓国名)を引っさげての二度目の養成所。

この養成所生活は、同期、諸先輩方に恵まれ充実の一年になった。

養成所ではありながら、四月だったか五月だったかの公演にいきなり研究生全員が出演させてもらえた。

某大御所俳優さんの手下のインド人ダンサーとして。

約30名のインド人ダンサー。

振付師はテレビで何度も見ていた有名な方。

もう全てが、当時の僕が知らないスケールの作品創り。

下は高校出たての18歳から、上は27歳の僕まで、経歴も個性も違う男女約30人の同期が出来た。

この中から翌年劇団に残る声がかかるのは毎年4、5人くらいと聞いていたので、とにかく必死だった。

↑少しでも目立とうという気持ちから、インド人のメイクが日々おかしなものになっていった。

どうでもいい話ですが、おでこの絵は象だったり、カレーだったり日替わりでした(笑)

それくらい大変な毎日を楽しみつつ、かつ必死だったわけで。

ここで出会った同期は全員年下だし、芸歴も僕の方が長いのだが、まったく横一線で良い競争相手となった。

男性だけで12人いたのだから必然的に競争意識も高まった。

最初の養成所で、たった一人の男性同期を約一ヶ月で失った僕に、ついにわかりやすい競争相手ができた。

夏には、劇団公演に出演できる数名を決めるオーディションがあったりもしたし、通常のレッスンの中でも同じ課題に取り組むことが多かった。

夏の公演は運良くオーディションを勝ち抜き出演させてもらえた。

そして切磋琢磨しながら、卒業公演まで全員で突っ走った。

一年中、毎日朝から晩まで、一緒に稽古して、一緒に酒を飲み、一緒に怒られ、たまにギスギスしたりしながら、突っ走った。

一年があっという間だった。

同期から劇団には6名が残ることになった。

僕は選ばれなかった。

そんなことはともかく、本当に貴重な一年だった。

が、

上京して一年、






早くも居場所を失ってしまった。





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大阪でずっと居たかったので、やはり上京は僕の中ではめちゃくちゃ大きな決断でした。

大きな決断ついでに、もうひとつ大きな決断をした。それが、




韓国名を芸名的に使うということ。




僕には、というか在日韓国朝鮮人には、名前が、本名が二つある。

僕はこの時まで、日本名しか使ったことがなかった。

芝居も日本名の杉原忠のままやっていた。

環境変えるついでに、思い切って変えた。

僕は、27にして初めて朴贊革を名乗った。

上京と並ぶ一大決心。

理由はいくつか。

杉原忠より朴贊革の方が覚えてもらいやすいだろうとか、一度くらいもうひとつの本名を使ってみようとかもあったが、とある在日ボクサーの影響を受けて、自分も堂々と韓国名名乗りたいと思ったことが大きい。いちいち「僕、実は在日やねん」って説明するのに疲れてたのもある(笑)。



最初は名前を呼ばれても自分だと思えなかった。「スギハラ」ではなく急に「パク」と呼ばれる。

「パクチャンヒョ」の音に慣れず、心地が悪かったがいつのまにか慣れていった。



東京で出直すに当たって三劇団のオーディションを受けたのだが、某劇団のお偉方の、

「日本語は話せるの?」
「北なの?南なの?」

には苦笑した。

逆に名乗ってよかったと思えたが(笑)。



ある劇団のオーディションでは、関西の劇団時代の後輩と一緒に受けることになった。

ものすごい倍率で、まあ受からないだろうなと思いながら受けたのだが、後輩が受かり、僕が落ちた。彼がすごかったのかもしれないが、おかげでショックも受けたし、自分の実力を思い知らされた。

僕にとってよかったのは、一番入りたかった劇団が年齢制限オーバーにも関わらず、僕を入れてくれたことだった。

ただ、そこは養成所からしか入れなかった。

そんなこんなで、僕は二度目の養成所に通うことになった。

演劇界であまりオススメされない、二度目の養成所。

高校出たての18歳を含む約30名の「同期」が出来た。

この時、僕は27歳。

芝居の世界に足を突っ込んで、8年目を迎えていた。

大阪から東京に環境を変え、
杉原忠から朴贊革に名前を変え、
新人として養成所に通う。

まさに出直しだった。














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卒業公演を終え、入団し、初めてキャスティングされるまで結局、約一年三カ月がかかった。

「男はチャンス」と言われて入団しながら、女性だらけの同期の中でも大トリだった。

まあ、実力の通りで、極めて平等でした(笑)。

座長から一時期「卒公のスター」という皮肉な異名をいただくくらい、後輩の卒業公演が一番の主戦場になっていた。

卒業公演のような若手中心の公演では、後輩にもなかなか男性が入ってこなかった事情もあり、僕には毎度美味しい役がやってきた。

「男はチャンス」

やはり嘘ではなかった。

だんだんと役もつけてもらえるようになった。

↑初めての劇団本公演キャスティング
↑唯一の劇団本公演主演。





同期や先輩の退団もいくつかあった。

その都度ショックだったが、おかげで「どんな存在であれ、誰かがいなくなったから組織が停滞することはない」と知った。

いなくなったら、いないなりの芝居を創るだけ。

僕みたいな何もできないやつでも、いるなら、いるなりの芝居を創るだけ。

決して冷めた風で言うのではなく、それだけのこと。

いまだにこの感覚は芝居を創る上で大切にしている。





そして養成所入所から約7年半、僕自身も退団をすることになった。

色んな理由がある。

どの理由をあげても、自分の中でも嘘のような、本当のような、よくわからない理由しかない。

事実としては、僕は役者としては伸び悩んでいた。

そのことがまずあるんだろうなと他人事のように思う。

いつかは東京に行きたいなんてまったく思ってなく、できることなら一生大阪にいたいと思っていたし、当時の劇団に愛着もあった。

26歳。何かを焦っていたのか。わからない。

よくわからないが、

「退団したい」

そうしないと、そこまでしないと、どん詰まりな時期だった。

退団してから、その後のことを落ち着いて考えてみた。

芝居をやめたいのか?

違う。何らかの形で芝居をやりたい。

これまで通り頑張るわけにはいかなかったのか?

たぶん、そう。

そんな自問自答を繰り返し、どこかで出直す結論を出した。

だったら今まで考えから排除していたが、あえて東京でやってみようかと考えた。

どうせ行き詰まってたんだし、伸び悩んてたんだし、

ゼロからやり直そう。

そう考えた。

2001年春、僕は東京で芝居をやり直すことになった。






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卒業公演が終わった。

僕はそのまま劇団に入団した。

本当は一年基礎を学んだら自分で劇団旗揚げするつもりだったはずなのだが。

卒業公演というゴールまでの一年半。

身の程知らずであることを知るだけでなく、本当に色んなことを教わった。

先輩達が僕にはキラキラして見えていた。

そして公私ともに可愛がってもらい、気がつくと「この先輩達とやりたいなあ」と思うようになっていた。

震災を乗り越えての卒業公演が尚更その気にさせたのもあると思う。

同期7人揃っての入団でした。

「うちの劇団は男が欲しい」
「男はチャンスやで」

散々そう聞いていたが、なかなか僕がキャスティングされることはなかった。

まあ誰よりも下手なので当たり前。

同期達は次々と役を勝ち取っていく。

主役級の良い役をもらう同期もいた。

正直、ただただ羨ましかった。

すごいなあと思った。

「男はチャンス」

……。

……………。

……………………チャンスって何や?

……………………………チャンスとは何ぞや?





稽古場では代役、本番中は場面転換用員の黒子。

それが僕のポジション。

少年野球で11人のチームで背番号13だった僕。

試合には一度も出れず、ベースコーチが定位置だった僕。

「男はチャンス」の劇団で出番のやってこない僕。





そのうち僕にもチャンスはやってくるはず。





そう自分自身に言い聞かせ、地道に一人で発声練習および代役の日々を過ごす。



そして、入団から一年が過ぎたが、僕にはまだチャンスはやってこなかった。
↑試合に出れないまま終わった少年野球時代の僕。背番号13になる前の27時代ですが😅







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半分諦めていた卒業公演をやれることになった。

やれることになった。

これは自分たちの努力でも何でもなく、ただただ当時の先輩方のおかげ。

震災の影響の残る中、先輩方が奔走して別の劇場を探してくれて、稽古できる段取り、公演を打てる段取りを組んでくれた。

いま僕がいるネコ脱出にも若手、新人と呼ばれる人達がいる。

そして夏には新人二人中心のミニライブのような公演を打つ。

僕は彼らのために、当時の先輩方のように動けるだろうか。

そう思うと尚更の感謝の気持ちを抱く。

話は少し逸れたが、卒業公演=初舞台がついに動き始めた。

残った同期は僕含め7人。

15人で始まり、最初の内部発表会前に11人になり、最後の発表会を終え卒業公演に向かうことになったのが9人。震災を越えて9人揃ってとはならなかった。

稽古が始まった。

震災があったことなど忘れてしまうような充実の毎日になった。

同時に個人的には苦悩の毎日(笑)

演出からの指示を何一つこなすことができないので、僕のシーンで何度も稽古がとまった。

先輩が目の前でお手本を示してくださる。

演出の指示の元、僕の代役を務めてくださる。

稽古場中が笑いの渦に変わる。

本役である僕がやる。

稽古場中に苦笑の静寂が訪れる。

先輩がお手本をやってくださるありがたさ。

それ以上に悔しさ、何もできない恥ずかしさがあった。

とにかく必死だった。

本番は考えられないくらい緊張した。

出番前にトイレに駆け込み、吐いた。

吐き気がとまらなかった。

中学一年生で堂々と「西遊記」の孫悟空役をやった面影はどこにもなかった(笑)。

僕の衣装は短めのパンツだったのだが、舞台上で、震えすぎていてずっと裾が揺れ続けていたらしい。

舞台袖から何人かの先輩方がそれを笑いながら見てたのを覚えている。

たった3ステージ。

やっと辿りついた3ステージ。

吐いて、震えて、力ずくでズタボロの芝居をしたデビュー戦。

そこから20年を越え、いまだに舞台に立てていると考えると感慨深い。

もう一度吐くほどの気持ちになったら、もう一皮むけるかな?

絶対に嫌だ(笑)

ただ、はっきり言えるのはあの頃より度胸もつき、技も持ったし、もう吐くことのない今の僕に、あの頃の良さは出せないということ。

ほろ苦く、恥ずかしく、尊く、誇らしい、そんな初舞台でした。
※写真をまた撮りしてるので、背景に妙な光の反射がある変な画像で失礼(笑)








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やっと迎える初舞台が地震で中止になる。

想像もしていないことが起こった。

電車が何ヶ月も動かない。

僕の通っていた大学も何ヶ月も休校となった。

高速道路が崩れ落ち、ビルが倒れた。

人が亡くなり、家が焼けた。

僕たちの卒業公演をやる予定だった劇場も稽古場も使えなくなった。

劇団事務所も潰れた。

時々、酔っ払って終電を無くして劇団事務所に泊まっていた僕を先輩方は心配してくれていたらしい。

まあその前日だか、前々日だかは泊まっていたので、その心配は正しく。が、この日は家にいたので僕は助かりました。

父が入院中、母も腕の骨を折って自宅療養中の最中だった。母はケガ人とは思えない速度で僕と兄を叩きおこしてくれ、僕たちはテレビからの情報を頼りに避難に備えた。最初、寝ぼけて二度寝しようとした僕は一生頭が上がらない。

それはともかく目標としていた初舞台は無くなった。

ただ先輩劇団員さんや僕の同期の安否は数日のうちに確認が取れた。幸いにも全員無事だった。

どの時期にどういう連絡だったかは忘れたが、先輩方から「必ず卒業公演はやるから」との連絡をもらった。

気持ちは嬉しかったが、それは無理だろうと思い期待したりはしなかった。

僕らの期で21期になる養成所だったが、なんでも歴代の中でも指折りのやる気のあるメンバーだったらしい。だから余計にやらせてやりたいというような話も聞いた。

もうそれだけで十分だなあと思った。

そして偶然、その21期に入れたことはラッキーだなあとも思った。卒業公演もない期なのに(笑)

そんなこんなで僕は大学にも通えず、初舞台はおろか養成所のレッスンも受けれず、本来の「やるべきことのない若者」に戻った。

お互いに家は無事だった大学の同級生と大学付近の被害の大きかった地域を訪れた。思いつく限りの物資を持って。

前からいるボランティアの方に、「必要なものはないか?」「何か手伝えることはないか?」を尋ねたが、ほぼ門前払いだった。

当時はショックだったし、腹も立ったが、今はめちゃくちゃ理解できる。

一日二日のお手伝いは必要としておらず、長く被災者と共に生活しながら動けるひとでないと意味がなかったのだろう。

物資ももちろん必要なんだろうけど、物資を仕分けたりするひとが足りてない中で意味がなかったのだろう。

僕たちは電車が動かないなか、また来た道を何時間もかけて歩いて戻り、やがて大阪に帰った。

そして再び「やるべきことのない若者」に戻った。

大阪梅田のアルバイト先は通常営業をしているらしく、僕は翌日から出勤した。

すぐ側に被災地があるとは思えないくらい街には活気があった。というより普通の毎日だった。

バイト先では、夜の留守番みたいなのもやってたので、やる予定の無くなった卒業公演の台本を読んだり、可能な時は発声練習をしたりもしていた。

が、目の前の目標がないので、まったく張りがなかった。

色んなことを考えた。

そして気がついた。

僕は作家、演出家志望と言いながら台本を書いたことがないということに。

それからは空き時間は台本を書いてみた。

その本はありえないくらい面白くなく、筆はまったく進まなかった。

何度か書き直してみたが、どれも3〜5ページで行き詰まる。

根が理屈っぽいので登場人物たちの全台詞が長文の説明台詞になってしまう。

めちゃくちゃ不自然な会話の数々、

新しい登場人物の出てくる場所はなく、

シーンの変化なんて考えるとこまでいかず行き詰まり、

僕の思い描く物語になる気配はこれっぽっちもなかった。

書くのが苦痛になった。

まったく書きたくなくなった。

一方、勉強のために始めた役者業は、これまたなんのセンスも感じられないくらい下手くそなのに、間違いなく楽しかった。

「大きなことは考えず、楽しいことをやろう」

僕は明確に役者志望になった。

そしてある日、劇団から連絡があった。

「五月から稽古を再開して、九月に卒業公演をやりましょう。出れますか?」の趣旨のものだった。

「必ず卒業公演はやる」

本当だったことに驚いた。
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