30年ごと | Metallerの昼寝

Metallerの昼寝

食事が基本。でもふだんは穏やか、ときどき自己満足ななんちゃってMetaller。このブログはすべて昼寝中の寝言。テキトーに聞き流してください。
トップ写真は、○十年大好きな日本のメタルクイーン。思春期に影響受けまくりました。

1868年(言わずと知れた明治維新)
1901年(20世紀の幕開け)
1930年(世界経済大恐慌が生じ、満州事変が勃発する一年前)
1969年(合衆国のベトナム撤兵が始まり、7月にアポロ11号が月に着陸して人類が初めて月面歩行に成功した年)
2002年(日本では不景気が進みはじめる)

わたしの主観にすぎないとは思うのだが、日本国内に限って言えば近世以降をざっと見てみると、以上のようにだいたい30年間くらいを節目に規模は様々であるが、政治、経済的に変動が起きている。それにともなって文化的(人々の生活面)にも変質が生じてきている。もちろん相互作用ということもあるかもしれないが。



おもしろいのは、(手前味噌になってしまうが)母方の曾祖父母が1905年から数年間米国に滞在していたということである。つまり彼らはまだライト兄弟が飛行に成功し、アインシュタインが相対性理論を発表した時期、フランスではキュリー夫妻がラジウムを発見しルノワールやロダンが活躍していた時代の空気を呼吸していたのだ。もちろん一介の出稼ぎ労働者に過ぎなかった二人に、なんの感慨もあったわけではないとは思うが。

明治10年代に生まれた曾祖母は医者の娘でかなりの美人だった(母が私に言っただけで、写真を見たことはない)が、小作農民の末息子だった曽祖父と大恋愛の末、駆け落ち同然で米国へ「新天地を求めて」旅だったのだという。すでに明治38年1905年日露戦争の翌年娘(母方の祖母)が生まれていたが、故郷の親戚に預けていた。(その親戚で祖母とずっと子供時代を過ごした祖母の従兄弟にあたるひとが、大工の棟梁で、うちの両親の家を建ててくれたのだそうだ
)しかし「黄色人種」への差別が激しい国への「出稼ぎ移民」だったのだ。そのうち生活が落ち着けば長女である祖母を呼び寄せようとも考えていたらしいが、1913年に制定されたカリフォルニア州での"排日移民法"により米国での仕事が難しくなったため、曾祖母夫妻は帰国せざるを得なくなった。

(黙々と低い給金で休まずに働き続ける"黄色い"日本人は、"自由を買うお金を稼ぐために働く"白人"たちには理解できない脅威と映ったに違いない。排日移民法を特に声高に訴えたのは、いわゆるSWAPたちではなくて、日本人同様に貧困の中から米国へ出稼ぎに来ていたアイルランドやイタリア、またはスペイン系の"白人"移民たちだったそうだ。それはそうだろう、そうでなくても貧しい自分たちがやっとありついた職場を、劣悪な労働に文句も言わずに自分たちよりも効率よく仕事をこなす東洋の黄色人種"日本人"に奪われてしまう!という不安にかられたのも理解できる。いつの時代も、不満はより弱い立場の者がはけ口になる。それは不満を叫ぶ者そのものが弱いからだ。水が高みから低いところへ流れるように。「Macht」はめったなことでは逆方向へ向かわない。仕方のないことだがこのような事実を観察するたびにやりきれなくなる。)

それでも期間限定ではあったが、米国での出稼ぎでの給金で財を成したため、貧しい農村であった故郷では十分に山を買って(当時、林業がさかんな地域だったため、山をもつということが推奨された)また田畑(農地を買うことができた。そしてまた林業や農業にもどって働きづめに働いた。苦労が続いた曽祖父はアメリカで既に腎臓を患っていたのだが、帰国して約十年くらいで病死したという。残された曾祖母は日本に帰国後次々と産んだ祖母の4人妹弟を抱えて農作業をしなくてはならなかった。その苦労を思うと胸がつまる、と同時にこういう話をきくといつもそうなのだが、当時を生きた人たちの勇気と忍耐力と自負心に敬服する。
そういう苦労を見ていたからなのか、祖母の弟で長男は実家を継いだが、二人の弟達TとSは成人を待って、その両親が青春を送った場所アメリカへと旅だった。当時の曾祖父母たちの向こうでの知り合いを頼っていき、仕事の手伝いを始めたのだそうだ。あちらで苦労を重ねながらも財をなすことに成功し、家庭をもった。あちらから日本の実家に仕送りも続けていたのだろうか。次男Sは仕事にまい進する一方で柔道で名を成し、カリフォルニア州に柔道を広める一助になったのだということを叔父から聞いたことがある。(あるオリンピックでは公式審判をしたことがあるし、柔道を広めたということで勲章ももらったのだそうだ。) 
長女であった祖母は、「女の子は、他の家へ嫁がせるのだから恥ずかしくないように教育を受けさせるべきだ」と考えて、村にとどまり普通に結婚させるのでなくてかなり離れた大都市にある女学校へと送り出したのだそうだ。このあたりの考え方から見ても、女性の教育、社会進出にかなり肯定的なそして合理的な女性像が浮かんでくる。保守的とは正反対である。当時の時代()明治が終わり大正が始まるころ)田舎の村の空気を想像してみても、かなり桁外れの人だったような気がする。と同時に私にそんな強さがあるのだろうかと思う。(明治の女性たちというのはすごいなあ、と思う。) 
あの豪胆な曾祖母も、その子であった祖母や祖母の弟妹たちもすでにこの世にはない。