最近、色々と考えさせられる中、ひらめくように感動が得られたので、メモとして書き留めていきたい。


この世の痛みや苦痛は、天国すなわち霊界での糧であり、在り方であり、この世でしたかったこと我慢してきたこと耐え忍んできたことは霊界で行うべき蓄財と力であり、あればあるほど暮らしは長くなるだろう。そしてすべてやり遂げてなにもなくなった時、再び別れを告げてこの世に戻らなければならない。その時、どのような生き方がいいか、選択の余地を与えられるであろう。



この世では肉体という姿かたちによって相手を判別することとなるが、なぜこの人と親密になれたのか、家族とは何者なのか等、本当の姿を知るのは姿かたちのなくなった霊体そのものにあり、死んではじめてお互いの正体を知ることとなる。そして霊体として出会った時にはこの世での試練を互いに労い、それが互いの喜びになる。



この世は一つのこと、一つの道しか歩めないようにできているため、それも耐え忍ぶべき試練でありあの世での蓄財であり力となり糧になる。



自殺や事故死する者は再びこの世に生きる時にその道を選んでしまい繰り返してしまう可能性が高い。この場合の選択とは別物だが、「選択」は簡単だが実際に生きた時の重みは想像をはるかに超える。それを知っての選択であるため、実際的にはすべてにおいて意味があり、選択できる力は経験値によって与えられる。



霊界では無論、姿かたちはそこにはなく、柵も一切ないこともわかっており、人間であった時、いかに人間間の痛みによって己が変化していったのかがはっきりとわかるであろう。しかし霊界ではまったくその必要がないから、そこには真の己や身近だった者たちの姿を見るであろう。そこには真の自由があることを知るであろう。



夢とは架空の世界と言われるが、実はあの世の姿に近い。あの世こそが本当であるが、人間であるがゆえに架空だと見なさなけれなならないのである。なぜなら、それは現実的に起こりえないことでありあまり意味を持たないからである。すべての現象は実は起こりうることであるが物体であるがゆえに制限がされているため、それで十分であるため、できないだけのことである。



地球上の悠久の歴史的変化は、霊界と繋がっており、生命は生と死を繰り返しながら創造力を増大させてきた。これは今もなお、繰り返し行われている。



死とは、誕生と同じくらい重要な出来事である。双方とも始まりと終わりは、終わりと始まりである。