実に晴れ晴れとした良い天気だ・・・

昨夜は5時近くまで起きていたので11時頃に起床し、野菜味噌汁といつもの黒酢を飲料し、布団干し、愛車の自転車を整備し、掃除し、シャワーを浴びて熱いコーヒーを口に含みながら、再びPCにて将来の不安を払拭すべく、模索をしなければならない、今に至る・・・音読もしなければ喉の違和感は払拭できない(不思議と音読したら違和感はなくなる。やはり「気」の問題か?)


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玄関を掃除しながら空気も入れ替え、ドアを全開にして外を撮影してみた・・・

今からサイクリングに、ピクニックに、と行きたいところだが、今の私にはそのような余力はないのかもしれぬべく、再び家に閉じ込もるのである・・・


この前書きたかったがPCトラブルで書けなかったことを書きたい・・・

~亡くなった叔父へ~
『脳出血で倒れ、救急車で運ばれ、酸素マスクで生かされた状態から3月14日仏滅、朝6時頃50代も半ば過ぎにして死去された叔父よ・・・。長野で身寄りもなく、姉である私の母も拒絶している中で、確かに可愛がってもらえた私の子供時代にはグローブと木製バットを買ってもらい、毎週のように野球をしたり、海でバーベキューをしたり、川へ、遺跡へと数多くの素晴らしい善き想い出を私の心に残してくださったことに心より感謝したいと思う。おじいおばあが生きていた頃、屋富祖の自宅で父も母も妹も弟もみんな揃って食事をしたりお酒を飲んだり、ウークイ(お盆行事)したりしたことは決して忘れない・・・。近くの仲西中学校にも行って野球をしたりした。本当あちこち連れて行ってもらった・・

私が25、6の頃、長野で働いている時に叔父も長野に住んでいたことから数年ぶりに再会した時にはヤクザ色バリバリで、携帯で集金業務で怒鳴っていた姿には驚いた。私が子供の頃から右翼だったことはわかるが、みんなを笑わしていた笑顔だけが印象に残っていたが、怒鳴っていた姿を見たことは初めてで驚いた。右翼とヤクザ両方をされていた。私を引き連れて相模原の事務所兼家に連れて行かれた時には2、3人のヤクザが同居しており、刺青に小指がなかったり、空気は決して良くなかった。だけど、叔父が親分だったため親戚である自分にはみんなとても優しくしてもらった。。そんなことがあった。その時期、母と妹が長野に遊びに来て4人で会ったのが、最後となった・・・・。

あれから約13年、死去されたことは今でも何だか信じられない。叔父は小さい頃はスポーツ万能で頭も良かったらしい。それなのに、なぜ、あのような世界に身を寄せていったのかは今でも謎である。なぜ、あの世界に行ったのか?決して世間一般には親戚としても、誇れないことは残念ながら確かなことである。最近、長野で生活保護申請をしていたらしく姉である母に役所からか連絡があったらしいが、母は拒絶した。私にも15万を借りて返さなかったのを母が私に立て替えて返してくれた。両親である、おじいおばあが亡くなった時にも来なかった。みんな母が行った。

叔父よ、なぜ、もっと真っ当に生きることをしなかったのか?

短い人の一生について考えさせられた数日間であった。死んでからは何もできない。今しかできないという「健康」を我々は与えられていることに心から感謝して、今こそ何かをしなければならないのだろう。何のために生きてきたのか?何のために、健康があるのか?年老いてから、倒れてから、死んでからでは本当、何もできなくなる人の短い人生だ。やってはいけないと言われていること、情報社会という恵まれた昨今、我々は知っていながらもついついやってしまうことも沢山ある。それを如何に自制できるのかも、生きる道程では問われたこと。元気な時になにをどのように行ってきたのか。それが老後、或いは死ぬ時に自分にまたは環境にあらわれるのだろう。

人から言われたことも、その時には反感を持ったとしても、あとから考えてみればやっておけば良かったでは本当後悔だけが残る。神様はどこにいるんですか?宗教がどうのこうの、でもないのかもしればい。神様はみんな一人一人の心の中にいるんだから。それを共有し合ってお互いの気持ちや言葉を聞いたりして歴史は古い時代から現代に至るまでじわりじわりと姿を変えていった。

叔父よ、良く頑張って生きて来られたことに心よりお疲れ様と称えたい・・・

そして、その一生を一人間として決して私は恨まず憎まず、私に善い想い出を残してくれたことは決して忘れない。

どうか、空を見上げて、天国へと旅立って疲れを癒して欲しい・・・

ご冥福を祈る・・・・』