私は重い吃音症(どもり症)を患っており、今なお苦しんでいるが、考えてみれば実は自分自身で選択した道なのである。



時は11歳のとき、おとなしめで、友人も限られていた普通の毎日になんだかヒマさを感じていた頃であった。



そんなときはじめは「欽ドン」という番組名だっただろうか…おっくんという話し方が特徴的で、早速学校でその話し方の真似をしたみたら結構受けて友人も増えた。



私は調子に乗って今度は山下清の真似をしたらこれまた大反響で、学年中で話題になり友人も更に増えた。



しかしある日、普通に話そうとしたところ、山下清の話し方が抜けない(-o-;)



山下清の「ぼ、ぼぼ、ぼくもおにぎりがた、たべたいんだな」みたいな物まねが、どもり症と化しようとしていた瞬間でもあった。



しかしまだ、普通の話し方に戻す余裕はあった。



そこで私は道の選択に迫られた。
普通に話した方がいいのか、いやそれとも、どもりの道を選んで、友人もたくさんできた方がいいんじゃないか。…どもりの道を選んで、社会人になったら普通の話し方に切り替えればいいという、非常に小学生らしい決断であった。



母は、「こんな話し方してると本当にそうなるよ」と注意を促していたこともはっきり覚えている。
しかし今が楽しいふざけ好きな小学生には聞く耳はなかった。



しかしそんな小学生にも、どもり症の道を選択した深い訳もあった。



もし自分の中からどもりがなくなったら 普通の人生を歩むしかなくなるだろう。それよりは視点を変えて、普通の生き方では経験できない道を選んで、人一倍成長したい、と願う思いがどこかしらにあった。



それを今になって考えてみれば、まさに「悩み力」である。つまり、悩みのない退屈さは凡人であり、成長をストップさせてしまう。悩みがなければ、ただ年齢を重ねていくだけで、何の変化もない退屈な人生で終わってしまう。



しかし、悩みに悩み苦しむほど、それを乗り越えたときには古い皮から脱皮できた新しい世界が訪れるんだと。



私は人間は「変化」するためにこの世に生誕したものだと思っている。だから、悩みが生まれるということは、悪いものに気づく力と、それを脱却する糧が悩み苦しむということだ。



私は最近「脳内メーカ」 を試みてみたが、結果ほぼ、「悩み」で埋めつくされていて2割程度は「愛」であった。正に的中だと感心した。。。