現政権は、政治は弱者のために行う、旨の主張をしている。
はたして、政治は弱者のために行うものなのだろうか。
そもそも、ここでいう「弱者」とは文理上、貧困層など、
日常生活に支障をきたしうる状態にある者をさしていると思われる。
もっとも、もっと広い意味を有しているかもしれない。
たとえば、年収1000万円以下とか。
日本における年収1000万円以上の人口はおよそ5パーセント。
残りの95パーセントの人たちのために、政治を行うことは、正しいことのように思える。
しかし、その95パーセントの人たちが、自己の利益を追求して、
残りの5パーセントの人たちの利益を犠牲にすることが許されるとしたら、
その95パーセントの人たちは、もはや弱者ではなく、政治的に強者となる。
これが、市民革命を経て得られた民主主義の実体像である。
経済的弱者が政治的強者となり、経済的強者が政治的弱者となる。
もっとも、経済的強者は献金によって、ある程度民主主義を動かすことはできる。
なぜなら、間接民主制はあくまで、代表者を通して、政治に参加するシステムであって、
その代表者はその支持者から自由委任を受けているにすぎず、
かかる代表者がどのように行動しようと、政治的には問題がない以上、
献金という誘因によって、経済的強者が政治に参画することも許されているからである。
そのように考えると、やはり経済的弱者は政治的にも弱者であるような気もする。
しかし、政治が弱者のために行われるということが、正しいことのように聞こえる理由は、
「弱者」が幅広い層を含有していて、数的に多数だからであるように思える。
そして、その「弱者」にあたかも国民全員が含まれているかのような錯覚を覚えさせる点で、
「弱者」概念は拡張性を有しているといえる。
以上をまとめると、
政治の目的となる「弱者」は、政治の目的たりうる点で、「強者」となる、
という点に改めて気付かされた、ということだ。
別に悪いとかそういった次元の問題ではなく、
当然の前提として、社会に存在する原理であるにも関わらず、
意外と気付いていない人が多いのではないかと感じた。
逆にいえば、政治が、政治的「強者」である「弱者」のために行われるのは当然でありながら、
当然でないような雰囲気もったフレーズで表現される、という事象について、
政権の主張内容としては、支持率維持のために有効かつ適切であった、
と評価できるだろう。