首藤誠は負の感情のさなかにいる。それは自分ではどうしようもなく手に負えないものだった。若いときに経験した哀しみに似ている。それは歳を重ねるうちに消えてしまったはずなのに、最近になって再び出現した。あのときの思いは心のなかに封印したまま、時間とともに無期限を超越することを望んでいた。それが現れた以上、もはや避けては通れないものだった


誠はかって完全犯罪をなしとげている。警察の網にもかかっていない。逃げおおせてすでに半世紀である。いまはやや田舎の一戸建ての平屋に住んでいる。負い目を持っている彼は津田夏子という女性と同棲してはいるが、なかば結婚しているも同然だった


少し離れたところに最近引越ししてきた女性住民がいる。ごみ収集所が同じなので、すれちがったときに軽く会釈をした。二、三回会うと誠は違和感を感じ、負の感情のなかに陥いらざるをえなかった。似ているのだ、あの黒木彩奈に


誠はもともとは個人医院の外科医で、独身であった。ある日近くの磯に海釣りに行った。陽が沈むこれからというときに、磯岩のそばで倒れている女を見つけたのだ。溺れているかのようだったが、よく見ると人魚のような尾鰭がついている。その部位から血が流れている。ここではどうすることもできないので、彼女を抱きあげ車に乗せて応急処置を施し、とりあえず医院まで戻った


医院はゴールデンウィークなので看護師などがいない。誠は一人で各種検査などの準備をしていると、女が「人間になりたい」と息もたえだえに呟いた。彼はただならぬ状況のなかで瞬時に「人間にしてあげる」と答えてしまった。密室状態のいまだからこそという心理的圧迫感が、そうさせたかもしれない。もはや後もどりはできないという覚悟で彼女に全身麻酔をかける。脚としての骨組みは尾鰭から作ればいいだろうという感覚で、メスを握った。幸いなことに手術室は灯が漏れない作りになっている。気がつけば、深夜0時には終わっている。彼女はきれいな両脚の持ち主になって、ベッドでスヤスヤ眠っている。彼はまるで完全犯罪をなしとげたような奇妙な安心感に浸っている。後かたづけはなんとか済ませた。ゴールデンウィーク終了前には退院してもらって、遠い親戚の娘が遊びにやってきたという「アリバイ」を設定し、生きていけるように名前や住むところなども考えている。だが、別々に生きていかないといけないという哀しみも抱えることになった


黒木彩奈もまた、違和感を感じていた。いますれちがった老人の匂いに、なぜか懐かしいような気持ちを抱きながら自然と過去を振りかえる。それは大雑把には「魚臭い」というものだった。あのとき人魚だったことや手術を受けた記憶などは、彼女にはまったくない。ただあの匂いだけは、ぼんやりとしてはいるけれども忘れえないものだった。彼女はおもいきって誠の家を訪問した。老けてはいるが、たしかにこの人の匂いだと思った。彼は若い黒木彩奈を見て周章狼狽した。そして津田夏子は、なかなか結婚してくれない理由がようやく飲みこめた。ただし、完全犯罪についてはいっさい知らない


数日後、黒木彩奈は誠たちの娘として一緒に生活している





◾️憩いの準動画


外科医  首藤誠







◾️出典:Wiki画像、いらすとや







◾️お楽しみいただきまして、ありがとうございました。次回作は暇がかかるかもしれません