さて、箱根戦争に話を戻す。
この熾烈な争いを問題視していたお上は、ようやく仲裁に乗り出した。
1957年、宮沢運輸大臣が出した調停案の内容は、
1、西武側は小田急の株式を小田急側に引き渡した上、双方共に全ての訴訟案件を取り下げる。
2、自動車専用道路早雲山線への乗り入れについては1年間継続している間に解決する。
と言う内容であった。
所が、その4日後に内閣改造に依り宮沢が辞任となった。
この為、調停案の内、実際に実行されたのは、小田急株式の引渡しのみであった。
これで少しは下火になるかと思われたが、小田急は猛反撃を開始する。
この年に小田急は3000形電車(ロマンスカー)を登場させるのである。
新宿~小田原間を60分で結ぶ事を目指し、同じくライバルであった国鉄との技術協力に依り急ピッチで、正に社運を賭けて開発されたのであった。
SE(Super Express)と呼ばれたこの車両は箱根湯本まで乗入れたのである。
【小田急SE (Super Express) 1957-1992】
更には箱根ロープウェイの完成をもって、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースも間近であった。
「俺達が運んで来た観光客は一人も渡さない。
国鉄が運んで来る観光客は小田原駅にて決戦をしようではないか!」
と小田急・箱根登山連合は西武・伊豆箱根枢軸に決意を促したのである。
当初は東急の助けが無ければとても西武とは争えないと言われていた小田急。
しかし、小田急の覚悟と社員の団結が短期間で西武と五分以上の戦いが出来る企業体にまで変貌を遂げたのであった。
1957年6月1日、駿豆鉄道は社名を伊豆箱根鉄道に変更した。
箱根を舞台の争いに、社名が伊豆と駿河を表しているのでは戦い辛い為だった。
更に箱根方面の戦いは泥沼と化していく。
この記事は2015-02-03
yahooブログにて掲載していました。