開通後の東京横浜電鉄は経営が非常に苦しく、負債もまだまだあった。
しかし、やはり手元に資金は一銭、一円でも多く欲しい。
しかし、やはり手元に資金は一銭、一円でも多く欲しい。
今度のターゲットは官であった。
当時は官営鉄道(国鉄)に協力していた鉄道には補助金制度があった。
これに眼をつけた五島は東横線の補助金制度の申請を、武蔵電気鉄道時代に社長であった郷にお願いしていたのである。
これに眼をつけた五島は東横線の補助金制度の申請を、武蔵電気鉄道時代に社長であった郷にお願いしていたのである。
地方鉄道補助法に規定される補助金交付の優先順位は、
1、軌間1067mmで国鉄と車両を直通し、且鉄道省の予定線に該当するもの。
2、軌間1067mmで国鉄と車両を直通するもの。
3、軌間1067mmで国鉄と連帯運輸をなすもの。
4、軌間1067mm以外なるも省の予定徐に該当し又は省線と連帯運輸をなすも、前各号以外の鉄道で地方開発上特に必要と認められるもの。
の順であった。
これに対し、国有鉄道の並行線・遊覧鉄道等は、補助の対象とはならない。
東横線は、軌間1067mmで、これは一応成り立つ。
国鉄と貨車の直通を実施しているから、これも一応成り立つ。
しかし、東横線は平行敷設でもなく、乗り換え無しの上、競争線の中では最も性質の悪い短絡線であった。
東横線は、軌間1067mmで、これは一応成り立つ。
国鉄と貨車の直通を実施しているから、これも一応成り立つ。
しかし、東横線は平行敷設でもなく、乗り換え無しの上、競争線の中では最も性質の悪い短絡線であった。
東横線は官営鉄道の乗客を喰う事はあってもその逆は有り得ない。
渋谷〜横浜間が全通すれば、官営鉄道の収入は年間3~40万円も喰われると思われる。
東横線には、どう考えても補助金等出る筈がないのであるが、これには郷の置き土産が効いたのだった。
渋谷〜横浜間が全通すれば、官営鉄道の収入は年間3~40万円も喰われると思われる。
東横線には、どう考えても補助金等出る筈がないのであるが、これには郷の置き土産が効いたのだった。
丸子多摩川〜神奈川間の建設に関し、武蔵電鉄は鉄道省に対し、開通後の地方鉄道補助金交付を打診していた。
国民経済新聞、鉄道記者の清水啓次郎の著書「私鉄物語」(1930、春秋社)に書いてあったのは、武蔵電鉄社長の郷は、懇意であった石丸鉄道次官に対し、
「開業したら補助してくれ。
補助すると言う内諾を与えて置いてくれないか」
と確約をお願いして来たのであった。
「開業したら補助してくれ。
補助すると言う内諾を与えて置いてくれないか」
と確約をお願いして来たのであった。
【石丸重美 1864-1923 Wikipediaより】
この懇願に、石丸は狼狽した。
いくら天下の石丸次官と言えども、開通所か未だに建設もしていない電鉄に対し、補助の確約等、到底出来る筈がなかった。
しかし、相手は実業界の大物。
五島に負けず劣らずの強引さで迫った。
いくら天下の石丸次官と言えども、開通所か未だに建設もしていない電鉄に対し、補助の確約等、到底出来る筈がなかった。
しかし、相手は実業界の大物。
五島に負けず劣らずの強引さで迫った。
とうとう、石丸は郷の強引さに折れ、
「省から内諾書を出す事は出来ないから僕の私信で主意だけ明かにしといたら宜かろう」
と言い出す始末であった。
石丸としては、私信を出した所で、当時の状況から武蔵電鉄が鉄道を建設出来るとは到底思えなかったのかも知れない。
「省から内諾書を出す事は出来ないから僕の私信で主意だけ明かにしといたら宜かろう」
と言い出す始末であった。
石丸としては、私信を出した所で、当時の状況から武蔵電鉄が鉄道を建設出来るとは到底思えなかったのかも知れない。
それから間もなく、
「補助は営業開始後に改めて出願する様、許可に相成るべき見込みにつき云々・・・」 武蔵電鉄では非常に喜び、これを「お墨付」と称し、大切にした。
「補助は営業開始後に改めて出願する様、許可に相成るべき見込みにつき云々・・・」
との石丸次官の私信が武蔵電気鉄道へ郵送された。
お墨付と言えば、戦国武将・徳川家康が関ヶ原の戦いで味方に取り込む為に、伊達政宗へと渡した「100万石のお墨付」が有名である。
これは政宗が秀吉から取り上げられた所領の内、長井・刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村の地(ほぼ50万石)を政宗に返還すると言うもので、家康が直々に書いた「お墨付」であった。
しかし、実際には政宗の不手際もあり、「お墨付」が守られる事はなかった。
武蔵電鉄へ石丸が送ったのは郷の強引さに負けて書いた、あくまで「私信」である。
それを「お墨付」と解釈したのであった。
これは政宗が秀吉から取り上げられた所領の内、長井・刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村の地(ほぼ50万石)を政宗に返還すると言うもので、家康が直々に書いた「お墨付」であった。
しかし、実際には政宗の不手際もあり、「お墨付」が守られる事はなかった。
武蔵電鉄へ石丸が送ったのは郷の強引さに負けて書いた、あくまで「私信」である。
それを「お墨付」と解釈したのであった。
さて、「お墨付」獲得から僅か3年の期間で東横線は開通した。
東京横浜電鉄は早速、補助金交付を申請したが、鉄道省は認可しなかった。
当たり前の事である。
東京横浜電鉄は早速、補助金交付を申請したが、鉄道省は認可しなかった。
当たり前の事である。
しかし、五島は、そんな事には一切気にしなかった。
この時、五島の都合の良い事に、既に石丸は故人となっていたのだ。
「ああ言っていた」とか、「こんな約束もしていた」とか、嘘やハッタリ等、幾らでも、何とでもと言えるのである。
正に「死人に口なし」であった。
この時、五島の都合の良い事に、既に石丸は故人となっていたのだ。
「ああ言っていた」とか、「こんな約束もしていた」とか、嘘やハッタリ等、幾らでも、何とでもと言えるのである。
正に「死人に口なし」であった。
例の「お墨付」を持出し、
「この確かな証拠があっても補助しないか」
と詰め寄った。
「この確かな証拠があっても補助しないか」
と詰め寄った。
これを見た鉄道省の役人は思わず眼を剥き、仰天する。
「何だ?これは?こんなもの知らないぞ」と、誰もが狼狽えた。
「何だ?これは?こんなもの知らないぞ」と、誰もが狼狽えた。
私信を勝手に「お墨付」と解釈されては鉄道省も堪らない。
苦し紛れに、「これは石丸氏の私信で当局とは何等関孫がない」とか、
「『許可に相成る見込につき』、と言うのだから必ずしも許可するとは限らない」
と、言い逃れをするしか無かった。
苦し紛れに、「これは石丸氏の私信で当局とは何等関孫がない」とか、
「『許可に相成る見込につき』、と言うのだから必ずしも許可するとは限らない」
と、言い逃れをするしか無かった。
されど、鉄道省にとって今回は相手が悪かった。
元々五島は、当時、補助金行政の要の位置にあった鉄道院監督局総務課長であり、裏も表も、酸いも甘いも知り尽くしていたのである。
五島は、無駄に官僚生活を続けていたのではなかった。
元々五島は、当時、補助金行政の要の位置にあった鉄道院監督局総務課長であり、裏も表も、酸いも甘いも知り尽くしていたのである。
五島は、無駄に官僚生活を続けていたのではなかった。
更に、東京横浜電鉄の前身である武蔵電気鉄道に石丸の推薦があって、移っていた経緯もあった。
「そんな阿漕な事を言うのであれば、いっその事、注廷に持ち出して理非曲直を分けようではないか」
と啖呵を切り、尚も役人達に迫った。
「阿漕なのは、お前の方だろう?」
とは、役人達は口が裂けても言えなかった。
相手は五島である。
その上、天下の事務次官が直々に書いた「お墨付」を持っているのだ。
とは、役人達は口が裂けても言えなかった。
相手は五島である。
その上、天下の事務次官が直々に書いた「お墨付」を持っているのだ。
更に五島は言葉を続ける。
「補助は営業開始後に改めて出願する様、許可に相成るべき見込みにつき云々・・・」
と、石丸の書いた事項をそのまま言ったのである。
「補助は営業開始後に改めて出願する様、許可に相成るべき見込みにつき云々・・・」
と、石丸の書いた事項をそのまま言ったのである。
こうまで強引に言われては、鉄道省の役人は頭を垂れるしかなかった。
結局は補助金を出した所で、役人達が身銭を切る事はないからである。
五島は遂に、補助金を引き出す事に成功したのである。
結局は補助金を出した所で、役人達が身銭を切る事はないからである。
五島は遂に、補助金を引き出す事に成功したのである。
この様な私情曖昧な「お墨付」で鉄道院(現、国交省)の役人達を脅し、昭和6年に至る迄に(年間30〜40万円)強引に莫大な補助金を分捕って来たのであった。
(次回は五島ならぬ強盗慶太③ (補助金2)です)
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この記事は2014-05-06
yahooブログにて掲載していました。
