行ってきました。

友人関係は旧くから新郎新婦を知る人間に限られ、小規模ではありましたが「実に新郎(友人)らしい」と納得する式でした。ええ。教会の選択が特に。

旧友達は私みたいな「エリートのなり損ない」ではない「超エリート」な人達なんで、久々に会っても以前と変わらない接し方が待ってました。
うん、彼ら、「張り合う」とか「見下す」とかする必要の無い人達なんで(謙遜はするけど)。

「おお、それはまた愉快な人生を。でもそろそろ忙しくなるねぇ」とか
「それはそうと、健康な生活送ってる?」とか(昔、体ぶっ壊したの知ってるから)
「時間あるときに家に寄ってくれ、奥さん喜ぶし」とか

なんかそんな感じ。
お互いの能力を認め合ってるしなぁ……張り合うって思考が無いんだよね。協力は考えるけど。


キリスト教式だった所為か、「コリント人への第一の手紙 第13章」が出てきてちょっと吹いたw

いや、「童の時は~」のところはとばされてて~って解りにくいな。
全文っぽいのがあったから載せておきます。うち、式で使われたのは『』部分

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「新約聖書・コリント人への手紙・13章」

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。
 また、ねたむことをしない。
 愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 愛はいつまでも絶えることがない。

しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
 このうちで最も大いなるものは、愛である。

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結婚した旧友は天才肌、或いは、天才的な秀才肌で裏の苦悩が解りにくい奴だ。
奥さんという、身近な理解者が出来たことを祝おうと思う。


旧友達とは
「また会うときも、同じように元気で」
と言って別れた。
何年先かは知らないが、何年先でも面白そうだ。

酷く疲れたが、良い日だった。

(いつの間にか敬体文が常体文になってたけどもう直すライフポイントはゼロなのでlolするが良いさdamn it.)