住吉大社の種貸社では、
稲種を授かり、豊穣を祈る祭事
「神種頒賜祭」
が行われているという今日。
商売の元手となる資本や知恵が
与えられるといいます。
住吉さんには2度ほど
おじゃましていますが
種貸社、というお社があったなんて
気がつきませんでした。
さらには、初辰参りというお参りもあり、
物事がどのように成長していくかを
お社をまわりながら、学んでいく仕組みがあるんですよね!
知らないことは、罪作りですT^T
それよりなにより、
商売の元手となる資本や知恵を
「神種」という言葉で表現していることに
とてもゆかしさを感じます。
さすが、言霊の神様・住吉さん。
キリスト教でも
この考えが底辺にあり、
ここから、現代につながる様々な思想や
社会システムが生まれています。
さて、個人の人生に置き換えて
考えてみると。
神種を集中して育てる時期があることに
お気づきでしょうか?
そう、子ども時代です。
子どもは、社会にとって
本来「神種」なのです。
私の教え子は、4、5歳から
教室に来始め、
最長13年 教室で学び、
大学に進む子が数人。
教室を離れた後も、
何かかしら繋がっていて、
共に時間を過ごすことがあります。
そこでは
今・この瞬間を生きている者同士の
対等な関係の中、
それぞれの知識、
体験を交流する場が生まれているのも、
嬉しいことです。
最近、
「社会の富」という言葉に出会い、
「私は、たくさん
社会の富を増やすことに
貢献してきたんだなぁ」
と今までの人生を振り返って
思えたことがありました。
それだけでも
とてもありがたい、幸せなことでしたが、
そこに今日、「神種」という言葉まで
加わって、
「たくさんの神種を授かり、
育てることが出来、
社会の富を増やすことに貢献出来ました。ありがとうございます。」
と、感涙滂沱の朝を迎えておりました。
教室に通われる子どもさんによっては、
使えるところだけ使って、満足したら
「要は済んだ。」とばかりに
事前にお話しもなく
乱暴に
突然切られてしまう場合もあります。
ここは子どもではなく、
大概、親御さんの考えでしょう。
そういう場面に出会うたび、
子どもが体験する痛みを感じることも
ありましたが、
それを乗り越えていくこともまた、
子ども自身の生命の役割です。
出会ったときは私にとって、
「神種」であり
終わる時が突然であっても
「それまでその子に必要な宇宙の富は
私を通じて流れ終わったのだろう。」
と、いつの間にか思えるようになっていた
自分にも驚きです。
たくさんの成長が出来たなぁ。
と思いつつ、
今日は住吉さんに
意識を向けて過ごそうと
思います。
風の時代最初の、春分の日手前。
というのもいいタイミングですしね。
おそらく、あちらさんも
授ける気満々なのでしょう。
このタイミングで、
気づかせてくれるのですから。