6.6.14…「お雛様・因果」⑦


祖父たちは杞(き)柳(りゅう)製品(注※)を作る手工業的工場(多い時には職工さんを90人程使っていました)を経営していました。


(注※ 杞柳製品には、代表的なものとしては、材料のコリヤナギの枝を丸のまま使った柳行李(やなぎこうり)があります。

また、枝を割ってひごにして編んで作る細工物があります。当時、北信濃はコリヤナギの産地で、田んぼには、挿し木した枝がまっすぐに伸びていました。

幼少の頃、見て記憶していることですが、刈り取った枝の皮を剝ぎ、硫黄で蒸して漂白する蒸し釜が裏庭にありました。白い湯気と硫黄の独特の臭い(火山の硫黄を噴き出しているのと同じ)を思いだします。

蒸して漂白された枝が、細工の材料になります。

それを乾燥して割って編み込みに使うひご(竹ひごと同じようなもの)を作ります。

そのひごなどで「買物かごやバスケット、缶詰かご」などを作っていました。


戦後の経済変化の大きな波は、わが家にも襲いかかりました。

母の治療のための多額な医療費がかさむ中で、一番の痛手は「新円切り替えによる預金封鎖」でした。

料亭を処分し銀行に預けていたお金が使えなくなったのです。

人件費のかさむ杞(き)柳(りゅう)製品を作る手工業的業界は、アメリカからの新しい物資や製品(ビニール製品など)……加工が楽で、手間暇があがらず安価です……が入ってきました。


わが町では、「住友ベークライト」など新しい工場、ビール会社なども出来ました。この頃、次々に新しい工場などが出来ましたが、蚕から絹糸を取り出す工場も……栄枯盛衰、交々の世相だった様に思います。


我が家は、戦中は軍需物資に関わっていて工場をやっていましたが、科学的資材による加工が楽な製品が作られてきて、次第にさびれていきました。

倒産という憂き目を見ます。


私が小学校に入学した翌年の昭和26年のことです。

学校から帰ると家の庭いっぱいにめぼしい家財道具が運び出され、差押えの紙、いわゆる「赤札」がベタベタ貼られていました。


祖父母と叔父一家は、東京へ新たな道を求めて戻っていきました。

私たち親子は、母が結核療養所に入院していましたので、父と共に北信濃の地に残りました。


父は次第に酒に溺れていきました。入院していた母の病状も、また日に日に悪化していったのでした。


1950年(昭和25)に朝鮮戦争が勃発、神武景気(軍需景気)で日本は新しい姿に転換していくのでした。

戦後の姿を少しだけ、覚えていることを書いてみました。