お彼岸である。
本家の墓参りをしてから、家に上がり込んで仏壇に向かった。
この家の建て替える前、七十四年前に私はここで生れた。大水が出る田園地帯のため、家は数メートルくらいの高さに盛土してあり、周囲は樹木や竹で生い茂っていて、真夏になるとカブトムシやクワガタが屋内に飛び込んで来たりした。
アブラゼミやミンミンゼミの鳴き声が盛大にしていて、樹木にはセミの脱け殻が一日に一つくらいは見つかった。
すぐそばには東武鉄道の沿線があって、数十分間隔くらいで鉄の継ぎ目を渡る金属音が、独特のリズムを刻み、私にとっては電車の通過する音とリズムが大好きだった。普通電車と特急とは音もリズムも違う。貨物は重たいリズムで迫力があった。
隣の悪ガキが、ある時線路に置き石をした。
駅から出発したばかりの電車は、低速でその置き石に乗り上げた。
途端に、激しく石が割れて飛び散って、びっくりした。幸い断線することなく、何事もなかったが、運転手には、その振動で悪ガキが置き石したことが分かっていたろう。
そんな思い出がある家の仏壇に向かい、意図していなかったが、中の御位牌を一つひとつと取り出してみた。
私が子どものころ、この仏壇は、古い家の北側の暗い通路にあって、私はその前を通るのが怖かった。私のバア様がよく仏壇の前の拝んでいたが、私は子どものころ、なぜか神様というものが別に存在していることを感じていた。だれから教えられたわけではない。幼少の私の心の中には、神様がいて、仏壇の霊的なものは、別なものだった。
すぐ近くの、私の産土神社(鷲神社)の奥殿の高い西側の壁をすり抜けて、境内で独りで遊んでいた私の数メートル前に飛び下りてきた、顔が浅黒く朱色の衣を着た人のようなものを見たのは、六歳くらいのことだったと思う。
「私は神様だよ。こっちへおいで」
その奇妙な人のようなものは、そう言って私を誘った。
「ヤバイ」と感じた私は、逃げて家の母親に話した。ただ、あっさりと笑われて、信じてもらえなかった。
数十年経っても、その神社で私の前に現れた朱色の衣を着た人のようなものの記憶が途切れず続いていたが、ミャンマー旅行に行く話になったときに、「あれはミャンマーの僧侶だ」と気がついて。まさに、私の記憶にあるあの槐の衣は上座部の僧侶の出で立ちで、浅黒い顔は、ミャンマー人に違いなかった。
疑問が湧いた。もし、あれがミャンマーの僧侶だとしたら、どうして「私は神だ」と言ったのだろう? 幼少の私には、ミャンマーの僧侶の情報などあるわけがないので、僧侶というものも、知識になかったはずだ。仏壇の仏様というものすら、記憶にない。あるのは「神」というイメージとことばである。それは幼少からあったのである。
だれがそんなことを私に刷り込んだのか?
私は、刷り込まれてなどいない。幼少のころには、神が自然にどこかにいた。いま、その神はどこに行ったのか?
さて、昔怖かった記憶しかない、暗い深い穴蔵のなかに蝋燭に照らされてゆらゆらと見えた御位牌を、何となく見てみたくなり、家主に許可をとり、一つひとつ、埃を払いながら取り出してみて、表と裏の写真をすべて撮ってきた。
私は、この家の前の古い家で、当時の爺さんと婆さんにものすごく可愛がられて育ったことは間違いない。ことのほか、爺さんには可愛がられ、なぜか? 隣町の芸者のいるところに爺さんに連れて行かれたことがある。駅前のベーカリーでは、クリームソーダをよく飲ませてくれたり、運転手付きの車で、川崎大師にお参りに連れていかれたりした。
私の爺さんは、村長だった。かなり長い間、ずっと村長だった。
私は村長の孫なので、あちこちで、ちやほやされたり、逆にいじわるされたり、いろいろあったが、とにかく、私の村長の家には、毎日,奇妙な人たちがやってきて、私はその人たちの振る舞いを、興味津々に見ていた。
中には、両足がたぶん大戦で失ったか、両手でゲタを履き、長い階段を登ってくるすごい人がいたり、顔や動作が恐ろしげで、すこし頭が切れがちな、片腕がない人がいたり、いったい何を話しに来るのか、その当時はまったくわからなかったが、いま考えると、村長という役職にあって避けられないことだったと言える。
それほど私を可愛がってくれた爺さんは、ある意味で偉かった。かなりの権力をもっていたのだろう。そう言えば、この村は、その当時の少し前に川が決壊して大水が出て、村全体が水没した。その復興のために、私の爺さんは、村長として県庁と談判して、私のいまになっても想像に過ぎないが、巨額の復興支援金を村にもたらす役割をしたはずである。
たぶん膨大な地方交付税か、それに類する歳入を推し進める活躍をしたと思う。そういう力があったので、村長として長く君臨したのだろう。
さて、そんな私の爺さんの位牌はというと、なるほどと感じたのは、二つもあった。一つはいわゆる普通のタイプ。もう一つ、豪華な逗子の扉付きの扉を空けたら、出てきたものである。権勢を奮った爺さんの影響は、仏壇の中にも及んでいた。
爺さんの長男は五歳で夭折していた。長女は二十四歳の若さで、たしか結核で他界した。美しい人だったというが、写真がない。次男は大東亜戦争の沖縄戦に向かう船が被弾し水没して戦死した。三男は背骨に障碍があって兵役は免れて身障者であったが、役所づとめはでき、八十四まで生き長らえた。そして二女が私の母だった。十年くらい前に八十三歳、父の死後数か月で他界した。
位牌には、私が生れたときにはいない曾祖父さんのものがある。曾祖父さんのたぶん写真のような画があって、それはなかなか立派な人に見える。七十三歳で逝去。その妻、つまり私の曾婆さんだが、五十四歳で亡くなっていた。写真のようなものは何もない。どんな感じの人だったのか、知りたいが、何も痕跡がない。
その前の霊位は、一つの代々の霊位として集合されていた。
「明和六丑年十一月」
このように書いてある。明和六年というと1769年、確かに丑年で、江戸時代の中期から後期である。どうしてこんなに古いものが、取り残されるように残っているのだろう。この仏壇の位牌では、その次に分かる古い年月は、曾婆さんの大正十年、1921年である。明和6年と書いてある位牌から、152年の間の記録が分からない。この江戸時代の位牌に書いてある人物と思しき名だが、私の家のものとは違う。まったく見たこともない奇妙な名字である。書いた文字が、上手いとは言えない。
これはどういうことなんだろうか?
一つ考えられるのは、ここにこの仏壇にこうして残っているということは、これは先祖の家の名字の前のものだったかもしれない。この位牌のあと、いまの家の名字というようなものが使われるようになり、以降は、私の曾祖父さんの位牌を作ったときに、代々の霊位として統合したのではないか。しかし、この名字らしきが違う位牌は、統合できず、そのまま仏壇に残ったのではないか?
私の生家は、百姓である。滋賀の方のある大名の名をいただいた武士くずれが流れて定着して、百姓をしていた家柄だと聞いた。百姓の身分だったとしても、名字とかはどうだったのだろろう。因みに位牌は、江戸時代に一般化したものという。ということは、ここにある明和の位牌は、すこしは資料的価値があるのかもしれない。